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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

突き抜ける感覚・意志

ずっと土曜日 朝9:55~10:25 フジテレビで放送されているグータッチが好きだ。

 

ライオンのグータッチ - フジテレビ

ライオンのグータッチ 夢を追いかける全ての子供たちの成長を見守る応援ドキュメントバラエティ。

 

概要としては、公式戦で一度も勝ててないチームだったり、ずっと負けっぱなしで競技を続ける子供を対象に、その道のプロの方が指導をしてまず1勝だったり、1点だったり、全国大会へだったり、優勝だったりを目指す(のを追っかけていく)番組。

 

これが本当に面白くて、子供が変わっていく様がほんとに見違えて、負け癖のある子供、本気で取り組めてなかった子供、どうやって練習したらいいかわからない子供が何かを掴んで、目が変わり、必死になる姿、そして結果を出す姿、結果が出せなかったときには(今まで流すこともなかった悔し)涙を流す姿、そういうものに心が動かされてしまう。

 

やっぱりどこか勝者と敗者のボーダーラインはあると思う。勝者は勝者になるだけの努力をしてきている。(もちろんその中には才能もある考え方もある知識もある)

そこで、「勝つ」もしくは「人に評価される」もしくは「結果がでる」「変化が起きる」っていうのはこういうことなのか!と感じることはとても大事だと思う。

 

だからこそ、努力を信じることができるようになる。結果を出した人を「才能」の一言で片付けずに、裏にどれだけの辛さがあったのか想像できるようになる。彼も彼女も私以上に努力したのだろう・・・と称えることができる。私以上に努力したやつなんかこの世にいないと自信に変わることもある。

この感覚を言葉で理解させようと思っても難しい。

そしてこの感覚は幼少期に味わってほしいなぁと思う。子供の世界で努力しているやつって少ないから、その世界では多分結果はついてきやすいと思う。(その代わりセンスあるやつがずば抜けて勝ってるけど、それを除けば、子供の伸びっていうのはかなり顕著だと思う。)

 

ここからはちょっと自分語りだけれど

自身がずっと陸上競技の長距離をやっていたけれど、小学校の時にマラソン大会があったのがきっかけだった。学年で10位内に入ると校内で放送されるのだ。だから10位内になんとか入りたいのもあって、校庭を1周するごとにマスを埋められるすごろくみたいなものをかなりやったし、家でもちょっと走った(そこを友達に見られると恥ずかしい気にもなった笑)。

んで当日、どうにか10位になった。「マジか」と思った。

でも11位になった子とも知り合いで、そいつは傍から見てもがむしゃらに頑張るキャラだった。だから別の知り合いの女の子に「え~、○○(11位のやつ)も頑張ってたから譲ってあげればいいのに」というようなニュアンスのことを言われたのを覚えている。

なんというか私は頑張ってないように多分見えてたのだと思う。こいつは俺がどれだけ「走ってきたかを知らないのだ」と思った。いわゆる「才能」でやってんだろうと思われたんだろう。弁解する気にもならなかった。苦笑いしたくらいだ。でも印象に残ってる。自分は間違っていないと思ったのは覚えている。

 

もう一つは

そのまま陸上をなんとなく続けて、中2のときにタイムが全然伸びなかった冬、闇練だー!といって(まさしく厨二感)部活が終わったあと夜家の近くを30分jogを追加してた日々があった。それがどうなるとか全く思ってなかったけど、ただ追加して走ればタイム伸びるかもくらいの感覚だった。

んで、春に記録会があったとき、3000mのタイムが一気に30秒くらい縮まって(9'55"→9'26")自分でびっくりした。「マジ?」と思った。経験則だけど中学高校くらいの陸上ってタイム出るときは一気にぶっ飛ぶ気がする。このときもまわりは「男子は伸びるんだよな」みたいな見方だったけど、「それは違う」と思った。人知れずやってたことがいきなり結実した瞬間だった。(思うんだけど、お前ら本人の努力と想像する余地はないんか笑)

 

そういうなんか、人よりも突き抜けた努力だったり時間の使い方をすれば、結果も突き抜ける(こともある)ということを感覚的に知ったのはこの辺だったかもしれない。

高校でも高1から受験を意識してたな・・・笑。お前ら全員ぶっ飛ばすくらいの気概はもってた気がする笑、なにがどうぶっ飛ばすのかわからんけど、勉強だったらぶっちぎりで勝つみたいな。笑

 

とにかく、ぶっちぎりのことをすればぶっちぎりに結果がついてきやすいのが幼少期だと思う。そのときに経験していれば、大人になったとき今ぶっちぎってる人がどれくらい何をやっているのかということに想像がいく(なにも知見のない分野だとこれを想像するのがホントに難しいのですが、断片的でもいろんな情報を集めるしか無いと思う)。大人になったらぶっちぎって当たり前みたいなそういう世界になってくると思うのでそういう成功体験を簡単に得ることは難しい。

 

だから、基本的に私も例えば労働なんかは、土日もできちゃうくらいじゃないと突き抜けられないのではないかと思う。土日も働けという意味ではなくて、土日も捧げても問題なく思える事柄に就いた方がいいと思う。土日も使ってぶっちぎろうと思える職は天職なのだと思う。(だからといって、別にみんながみんなぶっちぎって仕事したいと思っていないこともわかる・・・。それはほどほどに仕事をしてほどほどにプライベートを生きる、そういうのが心の底から楽しいと思う人もいるだろう。)

 

ちょっと前だと私も土日に労働は嫌だな~と思ってた。でも土日に労働が嫌なのも嫌だな~とも思ってた。もちろんまわりには、ほどほどに仕事をして土日はしっかり遊んで、毎日充実した(私からすればほどほどの)人生を愉しんでいる人も多い。それがある種の終着点だとも思う。

 

でも私はどこか、新しいことに挑戦してる人、突き抜けようとしている人、突き抜けた人がやっぱり魅力的に見えてしまう。

 

多分自身の尊厳とかプライドとかにもつながる気がする。どういう生き方している自分が自分で誇りを持てるか。肩書とかお金じゃなく、人に自分がしていることを自信持って話せるか。昔は卓球の愛ちゃんを目の前にしても自分の小ささを感じるばかりだった自分だけど、今ならあの時よりかは少しマシに話せる気がする。それは肩書じゃなくお金じゃなく、住む世界は違えど、お互いにぶっちぎろうと思って日々積み重ねているから。多分の回りにいる人が自分のレベルだよっていうのはこういう意味なのだと思う。

 

ということで私も今突き抜けようとしているところではあります。

f:id:naga-yu:20170225120333j:plain(つまりこういうことだと思うのです。カイジより)

 

世界を変えられると吐くのは大学生までかもしれないけど、1周回って今そんな風に思えるのはよほどの馬鹿か、本物か。根拠のない自信を持って良いのは幼児までですが、根拠がないわけじゃなく、この道をいければ多分世界は変えられる。世界とまでは言わなくても半径100mくらいは変えられるのではないか、と思ってる。

突き抜ける、それができるほどの時間が人生にはある。たぶん。