人生で使う学問
○○(学問)なんて社会で使わない、なんていうのは、私はそれを使う(使える)人生ではありませんでした、という自己紹介ぐらいの意味しかない。
超個人的ダンス史
コロナもあってダンス周りというのは下火になっていると思っている。
もしくは自分の加齢による関心が薄くなったのかもしれない。
自分の加齢によるものはとりあえず置いておいたとして、
自分もこれまで踊っていたけど、コロナがダンスにどのような影響を与えているのか
自分の感覚だけで(裏付けはないけれど)ささっと記したいと思う。
まずコロナによって、気軽に「踊る」(踊るにそこまで執着のない人は、サークル的な役割=集まる、というのと同義だと思って良い)ということがなくなって何が起こったかというと、
気軽に踊る人がいなくなった。
気軽に踊る人がいなくなったということは、
ちゃんとしっかり踊りたい人 と それを見る人、で完全に分断された、ということだ。
プロみたいに踊りたい、踊りが好きだから踊りたい、そういう人たちだけが踊っている。
テレビのコンテンツも踊りはレベルの高いものが求められ、つまりは見るための(クオリティーの高い、例えばキレがある)踊りを世間は求めていると感じている。
例えば、ひと昔前のAKB的な(恋するフォーチュンクッキー的な)踊りは無くなったように思えている。
ここで一旦コロナ前に話を戻すと、
コロナ前は「踊りたくなる踊り」というジャンル、というかそれを良しとする価値観があったように思っていた。
例えばで言えば、ピンクレディーのUFOに始まり、マイケルジャクソン、最近(コロナ前)で言えば、恋ダンスなどだ。
それ自体は実際は難しい(こともある)けれど、難しいを超えて、「なんかできそうかも?」「やってみたい」と思えるような踊りだ。
そんな踊りたくなる踊りの最後は、BTSのダイナマイトか、NiZiUのmake you happy、なような感覚がある。2020~2021年くらいか。
ちょっとわかりにくいのが、正確に言えば「踊りたくなる踊り」は存在しつづけているが
その主戦場はtiktokなどのスマホの画面で収まる、顔の周りで収まる、指、手首、肘より先を使ったサイズの踊りに変わっていった。
つまりは、全身を使うフォーメーションダンスのようなことはもはやプロの場でしか求められないようなものになっていった。もしそのような踊りが求められる場だとしても、腕を伸ばして大きく回したり、自身が回ったり、するような踊りはサイズ的・価値観的にもはやあまり見られなくなっていった(ように思う)
つまり、
コロナ前:
プロによる見るための踊り(マイナー)
恋ダンス的な踊りたくなる踊り(メジャー)
メジャーなものを支えているのは、気軽に踊れる集まれる状況
コロナ後:
プロによる見るための踊り(メジャー)
恋ダンス的な踊りたくなる踊り(マイナー・消滅)
個人・スマホの画面に収まるサイズの踊りたくなる踊り(メジャー)
んで、これがどこに見えているかというとよさこいである。
自分も少しかかわっていた、よさこいってめちゃコロナ後で需要がなくなっているようなジャンルの踊りなんじゃないかと思っている。
正確に言えば、踊り手と観客の境目が曖昧なような踊りが少なくとも私の思う踊りの魅力だったのだが、そこがなくなったと感じる。
もちろん、必死に練習して「見せるための踊り」に昇華させているチームもたくさんあるだろう。
それでも、祭りの現場をみながら、
踊られている踊りは、コロナ以降の振りではなく、コロナ以前の振りのままのような感じがしてしまって(例えば大きく腕を広げて回ったり大味な振り付けに)、
(とはいえ、事情的なことを汲めば、私も曲作ったのが正味3年前ですし、それは踊りを想像しながら作ったものなので、その時点でもはや3年前くらいの感覚が出てしまっている踊りでしかないのだが)
この今の時代の感覚がない踊りをやっていても、ジャンルそのものが下火になってしまうんじゃないかと思った。
今年は、もしかしたら「作ったけど披露できなかった」、つまりは「3年前の踊り」を見ることになるのかもしれない。
復帰戦がそれでいいのか、お客さんはその一回目で飽きやしないか、
復帰戦だからこそ値踏みされんじゃないだろうか。
(だからといってどうしろという話でもなく、自分もその例に漏れず、同情もするし、それは止められないことなんだけど)
各チームはその辺、どのようにアップデートしていたのかを期待していただけに
なんか良い意味なのか悪い意味なのか、変わらないんだな、と思わされてしまった。
来年は、感覚がアップデートされて見栄えや身体の動かし方も新しいものになるんだろうか。
その時私は何かを思うのだろうか。
直近、私自身も新潟に踊りにいくが、
3年前を取り戻すでもなく、3年前できなかったスタートではなく、
今の感覚を加えながら踊らないといけないのだろうな。
それが見ている人に伝わるかどうかはわからないけれど。
世界が変わってきている感覚があるから、自分が魅力に感じている部分にもはや需要がすっぽりないような感じがするのよね。
音楽は個人で楽しめそうだから、ぬるっと作り続けられたらなぁと思うけれど。
特別な日と
特別な日があるのではなく、
毎日が特別なのでもなく、
特別の日かどうかはいつでも自分の手の中にある。
毎日が奇跡のようで大事だよね、派なんですが
そもそもそれ自体、それを思う人が勝手に決めればいい話なので
一般的な「特別な日」というものは存在しないけれど「特別にしていい日」はいつだって存在している。
あなたは自由に、今日を「特別」にしていいし、
「特別」にできる。
これは、スタンスの話だったのだね。
無
昔は家に人呼んで鍋だなんだと夢を見ていたし
それによって少し元気になるみたいなことあったと思うけど。
今人呼べるのか、呼べるような立派なものなのか、呼んだとしてストレスないのか、みたいなことを考えてしまって、呼ぶ人もあんまりいないよなぁ…
となってしまって、誰も呼べないし、それに応じてまぁそこまでして呼ばなくてもいいか…、
みたいな気になってくる。
その欲とその厚顔無恥さの押し引きである。
欲は見ないふりすれば欲自体がなくなっていく。
こんなことできるようになった、こんなことしてる!ということが厚顔無恥(誰もそんなこと知りたくもないよなー)と思うほど、伝える相手がいなくなる。もっと言えば会う人間もいなくなっていく。
それを結婚という手立てでみなさんどうにかしていくのかも知れませんが…。
まぁそうなったらそうなった、なんですけど。
有事の戯言なんだろうけど
分類を下げるのではなく、対応できる医療をあげる方向にいかなくては…。
純粋な疑問として今は何やってるんだろう。
もし国のトップだったら専門家に相談したいこと
・医療施設以外を含める施設と医療従事者やそれに準ずるものの再分配。
・ある程度対応が決まってるなら誰でも(とまでは言わないが)超法規的にマニュアル化した医療活動できないか。
今は有事だと言うが、戦争の時はマニュアル化して誰彼構わず兵士にしてたと思うのに。
(戦争を比較例として出すのは語弊があるかもしれませんが)
医療スタッフを一時的にでも増やすこと考えなきゃ。
こんなようなことは東日本の震災後にボランティアした時も思った。
重機でガーッとやればいいとか。
でもそれを実際動かせるのは誰?
自分がピーチクパーチク言ってもめちゃ戯言。
それを動かせるのは基本的には政治だよな。
個人ができるのは「気をつける」だけなのか。何かないか。
罹ってる人罹ってない人で世界は分断されてる。
全員うぉー!と従事できる仕組みがあればな。
それもまた戯言か。
何か探すか。
本を読むこと
社会人も30代を過ぎてきたころに
昔に本を読んでおいてよかったなと思うことが増える。
昔は即時的には必要なかった、自己啓発の本とかマーケティングの本とかを高校〜大学くらいでよく読んでいた記憶があるけど、
それらの土台というか常識というか、が今になって他の人(そうはしてこなかった人)との差になっているような気がする。
当時は、ふんふんと意識高くわかったような気になって読んでいて
特段その時役に立つなんてことはなかったのだけれど、今の感覚や答えの出し方の裏付けはそういうところにあるのではないかと思う。
翻って、GWで本を少し読む時間があったのだけど
大人になっても本は重要だと思った・・・。
中でも興味深かったのは、
近親交配とか「奇形」についての考え方。
ーーー
今のヒトが霊長類的には奇形、という立場に立つと「優しさ」や「社会性」が生存戦略。昔にあった知恵袋はこういう論文からの引用だったのかもな。社会性を道徳だけに帰結させない、興味深い考察だと思う。
ーーー
と思った。
今の標準的なというか、健常者としょうがい者の線引きとかバリアフリー的な考えが
存在はしているが、もし仮に自分の子供を授かる機会があり、今言われているような「しょうがい」を持っていたとしたら自分はどのような立場にいようか、というのが全然腹落ちできてない自覚はあったのだけどこれを読んで結構すっきりした。
道徳的に「すべき」なのでもなく、「自分の子供だから」という責任感でもなく、「かわいい」からという主観でもなく、
(○○でもなく、と書いたのは自分がそれを信じるときにストレスや嘘が混じっちゃいそうだからそれを選ぶ勇気がないということです)
そもそもヒト自体が自然界でいったら「奇形」や「しょうがい」のものであり、「優しさ」や「社会性」そして「多様性」の視野で進んでいくというのが間違いではないこと、という意思がしっかりできた。
逆に言うと、誰かが「優しい」と感じる行為があったとしても、それは一般的にイメージされる「優しさ」ではなく、戦略上そうするべきだからしていることなのかもしれなくなるけど。(まぁ別にそれはそれでOKなような気もする)
また別の話だけども
自分を振り返って「事象の抽象化、本質化、共通化、普遍化を通じて解決、整理を導く」ということが好きなのかも、と思ったり。だからこそ学問って大事だなー、やろうかなーと考えたり、
知識のアップデートはもちろんだけど、自分が追わなきゃいけない何かを追わなきゃいけない気にさせてくれる。
本大事だよね。
もはや苦しみたがっている。星野さんとマツコさんの対談を見ながら
先日、星野源さんとマツコ・デラックスさんが対談しているテレビ番組をたまたま見ることができた。
いまや、星野さんと同じように話せることができるのは
星野さんが憧れている方か、星野さんと同じレベルの方でないと話が成立していないように見える。
そこでマツコさんは適任というか、きっと同じレベルで物事を考えてくれる人だろうなという感覚はなんとなくあった。
簡単に言えば、孤独。誰にも期待すらしてないし、期待しない自分を受け入れているし、友達がいれば電話すると言うが多分しない。そのとおりだと思う。
こんなときに電話できる人がいればいいな、と思いながらやれないのは、友達がいないのではなく、それをやると良いというふうに(星野さんやマツコさんが)人間としてプログラムされていないからだと思う。それを「神様が孤独に耐えうる人だから(そうさせた)」、とマツコさんは表現されていた。
自身も、恐らくやさしさとかというか思慮深さというかについて同じようなことを思う。
多分、比較的優しくはあれると思うけど誰も同じ程度で私にリアクションやアクションしないだろうと思う、し期待していない。だから精一杯優しく、思慮深くありたいとは思うけど、誰もが返せなかったなと思う中で死ぬしかないと思っている。
話変わって、最近はひけらかすような幸せに耐えられない。
正確に言えばなぜ幸せを表現するのかがよくわからない。
幸せすらも自分で消化できないのだろうか。それって幸せと言えるのだろうか。
ー幼年を可能性の爆発だとすれば、晩年は選択肢を閉じてゆく爆縮ー(左ききのエレン)
みんな可能性を閉じていってるように思う。
コロナだからより強く思うのかもしれない。
結婚、育児、で可能性を子供に絞る。
いや、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。
当たり前なんだよな。
その中でどうポジションをとろうかな。
というところで星野さんやマツコさんの話は大変ありがたかったんだよな。
星野さんの言ってたような「自分の好きなものを世間の真ん中に持ってくる努力」でもいいし。
人のことなんやかんや言ってたってしょうがないから
そんなふうに自分のポジションをしっかり取ることなんだよね。
それは自分を守るためではなく、己を知りパフォーマンスを発揮するために。
可能性は収束していく。
何かを作り出すとき、足りなさばっかりを感じる。
まずこの足りなさをどうにかさせることなんだろうな。
もちろん自分という責任において、今やっていることは形にする。
真ん中にする努力もする。
時間を使うか、質をあげるか。勝負か。そうだな。
いつだってそうか。逆境の期待薄で出す一手が一番輝く可能性がある。
クオリティをあげろ、もっとも良くあれ。やることをやろう。最善であれ。
それに文句を垂れるな。自分がエネルギー注ぐ。それ以外にエネルギーは生まれない。
煮えてなんぼのおでんだよ。
憧れに進もう。憧れよう。
落合さんの言葉が思い出された。
ーポジションを取れ、批評家になるな、フェアに向き合え、手を動かせ、金を稼げ、画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分なりの価値を見出して愛でろ、あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ、明日と明後日で考える基準を変え続けろー
evaluation
そういう評価を受けたいというには
そういうふうに生きたいというのと同義だよ。
それでいいんかいな。
誰がどんな発言してようが
好きでもないものに時間を使わないようにする。
変えられそうなものに注力する。
変えられそうな範囲を広げられるようになる。
変えられなさそうなものに拘らない。