handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

味覚以外のおいしさ

料理(と呼べるのか)をちょっとだけするようになってから

 

飲食店のご飯が、これは今日のために炊かれた米なんだな〜と思ったり

この粒立ちいいな〜硬さがいいな〜とか思ったり

 

調理場が見えるところでは

焼きながら洗い物してる!

とか調味料のさじ加減はどれくらいだ?

とか思うようになった。

 

この味はすぐには出ないだろうと思ったり

盛り付けもきれいだな〜となったり。

 

尊敬を加味して食べてる。

 

 

多分もともと味覚にそこまで興味なく

おいしさはある閾値があってそれを越えれば

すべて「美味しい」で表現されるものだと思っているけど

 

そういうもはや味覚視覚とか以外の「尊敬」も

おいしく感じられる要素なのだと実感した。

 

世界の解像度があがる。

 

 

もちろん、例えばジャンクフードをおいしいと思う気持ちも変わらないし、そういうものを美味しいと言っていたい気持ちもある。

ただそれとはまた別の美味しい以外の指標も存在するんだな〜と自覚したという話。

 

 

絵画の点描に思うところとちょっと似てる。

あれは見ている人が絵だけでなく、それができるまでの手間を受け取っているからインパクトがあるんだよね。

 

なんかそんな感じ。

ただの手間ではなく熟練された手間。

だから今目の前にこれがあるとわかる。

 

 

2021 year

あけまして。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

といわけで久しぶりにこちらに。

Twitterはよくよく更新しております。

 

2020やったことは

  • 音楽(1曲)を作成&ディレクションした
  • ひとり暮らしが始めた
  • マネージャーという地位になった(正確にいうとなる)
  • 配信ツールを使ってyoutube live配信した
  • 年始家族旅行に行けた
  • 在宅勤務を経験した

ということかなぁと思います。

コロナコロナいってる1年だったと言われますが

在宅勤務もあり音楽を1曲作れたというのはなかなか良かったと思っています。

 

下記otonockという、踊る団体で今後踊っていこうとする曲。

こちらの曲を制作(&三味線はぶん投げ(微ディレクション))したので

是非聴いてみてきださい。

 

かっこいいと思ってくれたら是非一緒に踊ってください。

踊りは今作ってます。

実際はベース部分がもうちょとベケベケ(?)すると思います。


otonockが曲を発表いたしました。

 

あとは、ひとり暮らしを始めました。

そろそろ「実家暮らし」と答えるのも憚られるようになったので

住みたいところに住もう、料理がしたい、住むことで人生が変わるのだ

と思って思い切って始めました。

どこの地域に住むかによって人との交流も変わりますもんね。

 

ちょっとだけ話は変わりますが

これは母が病気をしたときにも思ったことですが

母がいなくなった場合、日常で何が一番変わるかと考え、母の作る料理が食べれなくなることを悲しく思いました。そのため好きな料理のレシピも聞きました。(それには今度挑戦するつもりですが)

しかしながら、行き着いたところは、そうして料理で自分を育ててくれた、育ったこの味を感じる"舌"は、きっと母の料理で出来上がったものなのだと思ったのです。

どんな味が好きか、どんな味が嫌いか、どんな味をどんな風に捉えるのか、

この舌は紛れもなく母の料理で育っており、この舌が判断する"味覚"はきっと

母の料理に近づけさせてくれるものだ。と思うようになったのです。

そう思えたところから、”レシピ”どうの”母の味”がどうの、と思うことよりも

自分そのものの中に母は、人は、生きているのだと思うようになったのです。

 

話戻りまして、ひとり暮らしを始めるとそれを感じることは味覚以外にも多くあったのです。

洗濯の方法、洗剤の選び方、掃除の頻度、小さいゴミを拾うか拾わないか、湯船の掃除、冷蔵庫の使い方・・・枚挙に遑がありません。

 

だって私はそれしか知らないのですから。

そしてそれに合わせることで安心感がどこかしらにあるのです。

(これはポジティブな意味でいってますが、ご家庭の環境によってはネガティヴな話なのかもしれません。)

 

ということで、生活するにも母や家族が自分の中に生きているのだなぁと感じる場面が多々あったのでした。

そういうことを感じながら生きていくのです。

今まで感じなかったことだからこういうことを感じるのは新鮮です。

 

 

このコロナの状況で周りの結婚や出産をよく聞くようになりました。

相変わらず私は特に起こってないのですが笑

 

傍から見ると、曲をつくったり、踊りを踊ったり、ひとり暮らし始めたり

好きなことばっかりやってる(充実してそう)から、結婚ができないんじゃないかと思われたりするのですが、個人的には全部逆です。

 

最近、「ミステリと言う勿れ」という漫画を読みまして、その一説にこんなセリフがあります。

子供を産んだら女性は変わると言いましたね。

当たり前です。 ちょっと目を離したら死んでしまう生きものを育てるんです。

問題なのは、あなたが一緒に変わってないことです。

…でもそれは強制されることではないので好きにしたらいいと思います。

したこともしなかったこともいずれ自分に還ってくるだけなので

(ミステリと言う勿れ)

 つまり、子供ができたら多分生活が変わるという覚悟があるので、今手が出せることがあるならやっておこうと思っているのです。

学生時代の海外旅行もそうでした。あの時の自分を知っている人の思う自分は

海外好きで本当に行っちゃうやつ、みたいな感じだったと思います。でも、子供ができたら、社会人になったら、行けなくてもいいようにいっぱい行ってました。(フィンランドあたりは今でも行きたいです)

その通り、社会人になってから10年で海外旅行は2回しか行ってないと思います。

んで、その記憶だけでも残りの人生は結構楽しいものです。

 

余談ですが、そもそも欲自体がなくなってしまうことも往々にして感じるので、早めに行っていた方が「海外旅行をしたことがある人生」をずっとスルメのように噛んで味わえるようになるので、やっぱりさっさとやった方がいいと思います。

定年後にいこうとかゆっくりできたら行こうなんて人は、人生をあまりに点で捉えすぎです。ずっと線で繋がる思い出であり、事実なのです。

または今のように外部環境が悪くなることもあります。

思い立ったが吉日、というのはほぼほぼその通りだと思います。

 

というわけで、好きなことやって楽しんでいるというよりか

今できることが、できなくなることを前提にしているので

例えば、結婚できなければできないほどに

・海外旅行にいったことがある父親(もしくは夫)

・音楽を1曲作ったことがある父親(もしくは夫)

・踊りを1曲作って祭りにでたことがある父親(もしくは夫)

・ギターが弾ける父親(もしくは夫)

株式投資で1年突っ込んだことがある父親(もしくは夫)

・ひとり暮らしをしたことがある父親(もしくは夫)

・料理が自分でできるようになっている父親(もしくは夫)

・・・etc

という風に、経験豊富な父親(もしくは夫)になれるチャンス増えていくだけなのだと思います。

 

それは単純に早くに結婚ができる、子供が早くいる、ということよりも大切なことだと思います。

しかしながら、配偶者であれ、子供であれ、最愛の人とできるだけ早く、長く一緒に過ごす、以上の幸せや経験はこの世にほとんどないと思っていることも事実ですので

これはベストではなくベターな考え方だと思っています。

(とはいえ、そう考えていた方が、誰かの夫や父親になれた時に自分の自信にきっと繋がるのだと思います。)

 

考え方はあとからついてきますが、経験自体はついてきませんから。

大部分において挑戦できなくなっていく一方です。

 

株式投資で生活を突っ込んだ時も「人生でハンドルを振り切りたい」という思いがありました。振り切ったハンドルを持ってる人生は、やっぱり愛すべき人生だと自分で思えます。(後から)

 

 

 

と、なんの話かわからなくなるのはこのブログでよくあることですが

2021年は、生きる土台づくりに着手したいですね。

・サブスクサービスとか作りたいな〜(現状構想ゼロ笑)

・良い踊りを作って人が発散できるようにしたい。

・うまいハンバーグを作れるようになりたい。

・株式とかちゃんとチェック。

 

 

ブログだと誰も気にせずぎゃいぎゃいかけるね。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

タイトルなし

ドラマに一喜一憂する。

それを表現する。

 

ドラマはコンテンツだからいい。

一喜一憂させるためにあるものだから。

 

でも死は違う。

私を一喜一憂させようなんて意味はこれっぽっちもない。

意見をするときの論拠でも、引き合いでもなんでもない。

「悲しい」なんか述べようものなら、それは人を”消費”しようとしてるのではないかと自問してしまう。

 

ただただ受け止めることしかできない。

もしくは受け止めることさえできない。

 

「悲しい」と表現した数時間後に、ドラマの感想を表現できるタイムライン。

数時間後には忘れてまた新たな消費。

 

だから口には出さない。

”消費”してしまうから。

同列の”消費”にしてはならないから。

このようなことを書くのは2回目だけど

これも間接的に消費してるようだからもう書かない。

 

あえて言うのなら

なんだってコメント、しなくていいんだよ。

できないことをできるようになるためにまたは戦うために。

できないことというのはこの世にいっぱいあるけれど

できないことの解像度をあげると中には改善できる要素があって

そこを改善したらできるようになることもある。

 

例えばアポを獲得する電話がなかなかうまくいかなかったりする。

その時、アポ電話の要素ってのはたくさんある

・電話する先

・電話する時間帯

・電話の最初のトークスクリプト

・担当者につながった後のトークスクリプト

・声のトーン

・間

・モチベーション

・電話する回数・・・など

 

電話のする数が足りないんだよ!数をこなせば慣れてくるよ!

もっと明るく話して!

と言うのは目に見えて簡単だ。

 

でも、これらは人によっては無理なんだと思う。

 

一方、トークスクリプトを毎回相手によって変えたり

調べられる範囲で下調べをしてから的確にコミュニケーションをとるみたいな

丁寧なコミュニケーションの方が向いている人もいる。

明るくはなくても成果に繋がったりする。

 

ようは何を言いたいかと言うと。

・何かを達成するための手段ってまず、唯一1つではないということ。

・手段の中には自分の特性上できるものとできないもの、避けたいものとあまりストレスに感じないものがある。

・自分のストレスの感じない戦い方を貫いた方が結果を残せると思う。

 

最終的にやっていることに関して概念的に自分が疑問符があったら、できないと思うけども。

疑問を持つなと言うことではない。

これ本当に意味あるかな?と思ってしまうようなことはしない道を選びたいということ。

 

 

なんでもできる存在ではない

何もできない存在であることとと

何でもできる存在ではないことは

全く違う。

 

なんでもできる全能感でもなく

何もできない卑屈さでもなく

 

何でもできる存在ではないくらいが丁度いい気もする。

 

人生の解像度。

 

position

ほんとに、何かを選ぶことは何かを捨てることだし、優先度高くそれをやるべきだったのか当時から思ってたし、未知のものに対して過小に看過するのも謎だし、あの時点でどこかのポジションを取ろうとすることがあの時点で全く謎だった。