handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

本を読むこと

社会人も30代を過ぎてきたころに

昔に本を読んでおいてよかったなと思うことが増える。

昔は即時的には必要なかった、自己啓発の本とかマーケティングの本とかを高校〜大学くらいでよく読んでいた記憶があるけど、

それらの土台というか常識というか、が今になって他の人(そうはしてこなかった人)との差になっているような気がする。

 

当時は、ふんふんと意識高くわかったような気になって読んでいて

特段その時役に立つなんてことはなかったのだけれど、今の感覚や答えの出し方の裏付けはそういうところにあるのではないかと思う。

 

翻って、GWで本を少し読む時間があったのだけど

大人になっても本は重要だと思った・・・。

 

中でも興味深かったのは、

近親交配とか「奇形」についての考え方。

ーーー

今のヒトが霊長類的には奇形、という立場に立つと「優しさ」や「社会性」が生存戦略。昔にあった知恵袋はこういう論文からの引用だったのかもな。社会性を道徳だけに帰結させない、興味深い考察だと思う。

ーーー

と思った。

今の標準的なというか、健常者としょうがい者の線引きとかバリアフリー的な考えが

存在はしているが、もし仮に自分の子供を授かる機会があり、今言われているような「しょうがい」を持っていたとしたら自分はどのような立場にいようか、というのが全然腹落ちできてない自覚はあったのだけどこれを読んで結構すっきりした。

 

道徳的に「すべき」なのでもなく、「自分の子供だから」という責任感でもなく、「かわいい」からという主観でもなく、

(○○でもなく、と書いたのは自分がそれを信じるときにストレスや嘘が混じっちゃいそうだからそれを選ぶ勇気がないということです)

そもそもヒト自体が自然界でいったら「奇形」や「しょうがい」のものであり、「優しさ」や「社会性」そして「多様性」の視野で進んでいくというのが間違いではないこと、という意思がしっかりできた。

逆に言うと、誰かが「優しい」と感じる行為があったとしても、それは一般的にイメージされる「優しさ」ではなく、戦略上そうするべきだからしていることなのかもしれなくなるけど。(まぁ別にそれはそれでOKなような気もする)

 

また別の話だけども

自分を振り返って「事象の抽象化、本質化、共通化、普遍化を通じて解決、整理を導く」ということが好きなのかも、と思ったり。だからこそ学問って大事だなー、やろうかなーと考えたり、

 

知識のアップデートはもちろんだけど、自分が追わなきゃいけない何かを追わなきゃいけない気にさせてくれる。

 

本大事だよね。

勉学科学

肩こりをロキソニンで治った気になったらあかんやろ、とcm見ながら素人目で思うけど、

 

cmは優先順位が作られた情報ではないし、

あるべき処理の仕方なんて教えてくれず、

自社に利のある方向へ誘導するだけの超部分最適みたいな構造。

何事も原因と対処を明らかにしてから臨まないと

変なところに連れていかれる。

 

その必要な姿勢を持つのに必要なのが勉学であり科学だと思う。。

 

勉強がんばろう。

もはや苦しみたがっている。星野さんとマツコさんの対談を見ながら

先日、星野源さんとマツコ・デラックスさんが対談しているテレビ番組をたまたま見ることができた。

 

いまや、星野さんと同じように話せることができるのは

星野さんが憧れている方か、星野さんと同じレベルの方でないと話が成立していないように見える。

そこでマツコさんは適任というか、きっと同じレベルで物事を考えてくれる人だろうなという感覚はなんとなくあった。

 

簡単に言えば、孤独。誰にも期待すらしてないし、期待しない自分を受け入れているし、友達がいれば電話すると言うが多分しない。そのとおりだと思う。

こんなときに電話できる人がいればいいな、と思いながらやれないのは、友達がいないのではなく、それをやると良いというふうに(星野さんやマツコさんが)人間としてプログラムされていないからだと思う。それを「神様が孤独に耐えうる人だから(そうさせた)」、とマツコさんは表現されていた。

 

自身も、恐らくやさしさとかというか思慮深さというかについて同じようなことを思う。

多分、比較的優しくはあれると思うけど誰も同じ程度で私にリアクションやアクションしないだろうと思う、し期待していない。だから精一杯優しく、思慮深くありたいとは思うけど、誰もが返せなかったなと思う中で死ぬしかないと思っている。

 

話変わって、最近はひけらかすような幸せに耐えられない。

正確に言えばなぜ幸せを表現するのかがよくわからない。

幸せすらも自分で消化できないのだろうか。それって幸せと言えるのだろうか。

 

ー幼年を可能性の爆発だとすれば、晩年は選択肢を閉じてゆく爆縮ー(左ききのエレン)

みんな可能性を閉じていってるように思う。

コロナだからより強く思うのかもしれない。

結婚、育児、で可能性を子供に絞る。

いや、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。

当たり前なんだよな。

 

その中でどうポジションをとろうかな。

 

というところで星野さんやマツコさんの話は大変ありがたかったんだよな。

星野さんの言ってたような「自分の好きなものを世間の真ん中に持ってくる努力」でもいいし。

 

人のことなんやかんや言ってたってしょうがないから

そんなふうに自分のポジションをしっかり取ることなんだよね。

 

それは自分を守るためではなく、己を知りパフォーマンスを発揮するために。

可能性は収束していく。

 

何かを作り出すとき、足りなさばっかりを感じる。

まずこの足りなさをどうにかさせることなんだろうな。

もちろん自分という責任において、今やっていることは形にする。

真ん中にする努力もする。

時間を使うか、質をあげるか。勝負か。そうだな。

 

いつだってそうか。逆境の期待薄で出す一手が一番輝く可能性がある。

クオリティをあげろ、もっとも良くあれ。やることをやろう。最善であれ。

それに文句を垂れるな。自分がエネルギー注ぐ。それ以外にエネルギーは生まれない。

 

煮えてなんぼのおでんだよ。

憧れに進もう。憧れよう。

 

落合さんの言葉が思い出された。

 

ーポジションを取れ、批評家になるな、フェアに向き合え、手を動かせ、金を稼げ、画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分なりの価値を見出して愛でろ、あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ、明日と明後日で考える基準を変え続けろー

誰がどんな発言してようが

好きでもないものに時間を使わないようにする。
変えられそうなものに注力する。
変えられそうな範囲を広げられるようになる。
変えられなさそうなものに拘らない。

味覚以外のおいしさ

料理(と呼べるのか)をちょっとだけするようになってから

 

飲食店のご飯が、これは今日のために炊かれた米なんだな〜と思ったり

この粒立ちいいな〜硬さがいいな〜とか思ったり

 

調理場が見えるところでは

焼きながら洗い物してる!

とか調味料のさじ加減はどれくらいだ?

とか思うようになった。

 

この味はすぐには出ないだろうと思ったり

盛り付けもきれいだな〜となったり。

 

尊敬を加味して食べてる。

 

 

多分もともと味覚にそこまで興味なく

おいしさはある閾値があってそれを越えれば

すべて「美味しい」で表現されるものだと思っているけど

 

そういうもはや味覚視覚とか以外の「尊敬」も

おいしく感じられる要素なのだと実感した。

 

世界の解像度があがる。

 

 

もちろん、例えばジャンクフードをおいしいと思う気持ちも変わらないし、そういうものを美味しいと言っていたい気持ちもある。

ただそれとはまた別の美味しい以外の指標も存在するんだな〜と自覚したという話。

 

 

絵画の点描に思うところとちょっと似てる。

あれは見ている人が絵だけでなく、それができるまでの手間を受け取っているからインパクトがあるんだよね。

 

なんかそんな感じ。

ただの手間ではなく熟練された手間。

だから今目の前にこれがあるとわかる。

 

 

2021 year

あけまして。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

といわけで久しぶりにこちらに。

Twitterはよくよく更新しております。

 

2020やったことは

  • 音楽(1曲)を作成&ディレクションした
  • ひとり暮らしが始めた
  • マネージャーという地位になった(正確にいうとなる)
  • 配信ツールを使ってyoutube live配信した
  • 年始家族旅行に行けた
  • 在宅勤務を経験した

ということかなぁと思います。

コロナコロナいってる1年だったと言われますが

在宅勤務もあり音楽を1曲作れたというのはなかなか良かったと思っています。

 

下記otonockという、踊る団体で今後踊っていこうとする曲。

こちらの曲を制作(&三味線はぶん投げ(微ディレクション))したので

是非聴いてみてきださい。

 

かっこいいと思ってくれたら是非一緒に踊ってください。

踊りは今作ってます。

実際はベース部分がもうちょとベケベケ(?)すると思います。


otonockが曲を発表いたしました。

 

あとは、ひとり暮らしを始めました。

そろそろ「実家暮らし」と答えるのも憚られるようになったので

住みたいところに住もう、料理がしたい、住むことで人生が変わるのだ

と思って思い切って始めました。

どこの地域に住むかによって人との交流も変わりますもんね。

 

ちょっとだけ話は変わりますが

これは母が病気をしたときにも思ったことですが

母がいなくなった場合、日常で何が一番変わるかと考え、母の作る料理が食べれなくなることを悲しく思いました。そのため好きな料理のレシピも聞きました。(それには今度挑戦するつもりですが)

しかしながら、行き着いたところは、そうして料理で自分を育ててくれた、育ったこの味を感じる"舌"は、きっと母の料理で出来上がったものなのだと思ったのです。

どんな味が好きか、どんな味が嫌いか、どんな味をどんな風に捉えるのか、

この舌は紛れもなく母の料理で育っており、この舌が判断する"味覚"はきっと

母の料理に近づけさせてくれるものだ。と思うようになったのです。

そう思えたところから、”レシピ”どうの”母の味”がどうの、と思うことよりも

自分そのものの中に母は、人は、生きているのだと思うようになったのです。

 

話戻りまして、ひとり暮らしを始めるとそれを感じることは味覚以外にも多くあったのです。

洗濯の方法、洗剤の選び方、掃除の頻度、小さいゴミを拾うか拾わないか、湯船の掃除、冷蔵庫の使い方・・・枚挙に遑がありません。

 

だって私はそれしか知らないのですから。

そしてそれに合わせることで安心感がどこかしらにあるのです。

(これはポジティブな意味でいってますが、ご家庭の環境によってはネガティヴな話なのかもしれません。)

 

ということで、生活するにも母や家族が自分の中に生きているのだなぁと感じる場面が多々あったのでした。

そういうことを感じながら生きていくのです。

今まで感じなかったことだからこういうことを感じるのは新鮮です。

 

 

このコロナの状況で周りの結婚や出産をよく聞くようになりました。

相変わらず私は特に起こってないのですが笑

 

傍から見ると、曲をつくったり、踊りを踊ったり、ひとり暮らし始めたり

好きなことばっかりやってる(充実してそう)から、結婚ができないんじゃないかと思われたりするのですが、個人的には全部逆です。

 

最近、「ミステリと言う勿れ」という漫画を読みまして、その一説にこんなセリフがあります。

子供を産んだら女性は変わると言いましたね。

当たり前です。 ちょっと目を離したら死んでしまう生きものを育てるんです。

問題なのは、あなたが一緒に変わってないことです。

…でもそれは強制されることではないので好きにしたらいいと思います。

したこともしなかったこともいずれ自分に還ってくるだけなので

(ミステリと言う勿れ)

 つまり、子供ができたら多分生活が変わるという覚悟があるので、今手が出せることがあるならやっておこうと思っているのです。

学生時代の海外旅行もそうでした。あの時の自分を知っている人の思う自分は

海外好きで本当に行っちゃうやつ、みたいな感じだったと思います。でも、子供ができたら、社会人になったら、行けなくてもいいようにいっぱい行ってました。(フィンランドあたりは今でも行きたいです)

その通り、社会人になってから10年で海外旅行は2回しか行ってないと思います。

んで、その記憶だけでも残りの人生は結構楽しいものです。

 

余談ですが、そもそも欲自体がなくなってしまうことも往々にして感じるので、早めに行っていた方が「海外旅行をしたことがある人生」をずっとスルメのように噛んで味わえるようになるので、やっぱりさっさとやった方がいいと思います。

定年後にいこうとかゆっくりできたら行こうなんて人は、人生をあまりに点で捉えすぎです。ずっと線で繋がる思い出であり、事実なのです。

または今のように外部環境が悪くなることもあります。

思い立ったが吉日、というのはほぼほぼその通りだと思います。

 

というわけで、好きなことやって楽しんでいるというよりか

今できることが、できなくなることを前提にしているので

例えば、結婚できなければできないほどに

・海外旅行にいったことがある父親(もしくは夫)

・音楽を1曲作ったことがある父親(もしくは夫)

・踊りを1曲作って祭りにでたことがある父親(もしくは夫)

・ギターが弾ける父親(もしくは夫)

株式投資で1年突っ込んだことがある父親(もしくは夫)

・ひとり暮らしをしたことがある父親(もしくは夫)

・料理が自分でできるようになっている父親(もしくは夫)

・・・etc

という風に、経験豊富な父親(もしくは夫)になれるチャンス増えていくだけなのだと思います。

 

それは単純に早くに結婚ができる、子供が早くいる、ということよりも大切なことだと思います。

しかしながら、配偶者であれ、子供であれ、最愛の人とできるだけ早く、長く一緒に過ごす、以上の幸せや経験はこの世にほとんどないと思っていることも事実ですので

これはベストではなくベターな考え方だと思っています。

(とはいえ、そう考えていた方が、誰かの夫や父親になれた時に自分の自信にきっと繋がるのだと思います。)

 

考え方はあとからついてきますが、経験自体はついてきませんから。

大部分において挑戦できなくなっていく一方です。

 

株式投資で生活を突っ込んだ時も「人生でハンドルを振り切りたい」という思いがありました。振り切ったハンドルを持ってる人生は、やっぱり愛すべき人生だと自分で思えます。(後から)

 

 

 

と、なんの話かわからなくなるのはこのブログでよくあることですが

2021年は、生きる土台づくりに着手したいですね。

・サブスクサービスとか作りたいな〜(現状構想ゼロ笑)

・良い踊りを作って人が発散できるようにしたい。

・うまいハンバーグを作れるようになりたい。

・株式とかちゃんとチェック。

 

 

ブログだと誰も気にせずぎゃいぎゃいかけるね。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

タイトルなし

ドラマに一喜一憂する。

それを表現する。

 

ドラマはコンテンツだからいい。

一喜一憂させるためにあるものだから。

 

でも死は違う。

私を一喜一憂させようなんて意味はこれっぽっちもない。

意見をするときの論拠でも、引き合いでもなんでもない。

「悲しい」なんか述べようものなら、それは人を”消費”しようとしてるのではないかと自問してしまう。

 

ただただ受け止めることしかできない。

もしくは受け止めることさえできない。

 

「悲しい」と表現した数時間後に、ドラマの感想を表現できるタイムライン。

数時間後には忘れてまた新たな消費。

 

だから口には出さない。

”消費”してしまうから。

同列の”消費”にしてはならないから。

このようなことを書くのは2回目だけど

これも間接的に消費してるようだからもう書かない。

 

あえて言うのなら

なんだってコメント、しなくていいんだよ。