handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

spring far away

はる。

 

今まで長らく感じてこなかったような春。

なんとなく近くの公園や通勤徒歩の間に植物や特に桜があったからだろうか。

それとも今日自分が寝不足だからだろうか。

春を心地よく感じる。

 

春はいつだって心地いいけども。

1番好きな季節。過ごしやすいからというただただ合理的な理由で。笑

 

また春を感じたい。これから。

vote

投票率って100%じゃなくてもある程度統計的には民意を反映できてるのでは。

 

もちろん100%が完全だろうけど。

②もちろん年代などでの情報や投票した際の非対称性があるからひっくり返る余地はあると思うが。

 

ただ望まぬ状況に②を言うことで、まだみんな投票してないから!(こんなに自分とって都合が悪いんだ、みんな馬鹿だ!)と言える余地があるのがまだ救いなわけで

 

投票率100%になったらどこにも逃げられなくて

民主主義を否定する話になる気がするが。

 

結局投票というより、望んでるか望んでないかという話でしかないような。

必要なものは自分で決められない

数学や理科は社会に出てから不要だのなんだのと、

 

必要と思った範囲のものを身につけるだけになったら、「想定の範囲」なものしか対応できないのよね。

 

その想定の範囲は、身につけてきたものでまた範囲が決まるから、どんどん縮小するばかり。

 

え、これがここに役立つ?とか、想定外は生まれない。ただ対応できないものになる。

 

必要なもの、という概念自体が不必要なんだよ。

over age 35

わかった気になるというのは何かの形に何かをはめることのような気もするが、齢35を超えてわかってきたことを無理やり言語化すれば100人いれば100通りの人生があるだけだ。

 

人にそれぞれある程度の枠が存在している。限界というわけではなくて、考え方の枠といってもいいかもしれない。癖と言ってもいいかもしれない。ただ枠が限界を設定していることもある。

 

別にそれを知る必要もなければ、ブレイクスルーする必要もないし、人生にそんなものも必要ない。が必要ないことを言いたいわけじゃなく、うまく生きるということはこの癖と生き方をぐるぐる作用させながら回すことなんだろう。

 

まぁうまく生きる必要もないのだが。生きやすくという意味ではいいのかもしれない。

 

もちろんオリンピックやスター選手たちは心技体揃っているのだが、もちろん尊敬の念もあるのだが、そこに優劣は感じないというか、運もあるし、いろんな要素がぐるぐるぐるぐる人生を回したのだなと思う。

 

だからオリンピックは国の話というより、人間が身体的、精神的、戦略的な限界に挑んでいる姿があることとそれを見れるということにおいて素晴らしい。そもそもなんで国だと思ってるんだろうな、それぞれオリンピック支部があるくらいで見ればいいんだよな。帰属意識とバランスが取れれば良い作用する。

 

話はそれたが、だからそれは例えば年収みたいな話でもそうだし、その高低が優劣を決めるものではないと思う。もしかしたらこだわりの強弱は表しているかもしれないが。ただわかってきたと言いたいことはそういうことなのかもしれない。優劣ではなく100通りの何かの要素の組み合わせがあるだけ、何かの組み合わせや何かの強弱があるだけ。初期値が平等だとは言わないが、かけ離れたネオ人間がいるわけでもない。

 

他人とだって同じ部分違う部分掛けながら新しい地平を見る。あるいは掛けられる距離感を見極める。無理はしない。そもそも必要はないのだから。いつだってオプション、問うクイズ。

 

だからなんだって?自分のコンプレックスや嫌なところをひとつ剥がす話なのかもしれない。

BUMP 18祭

youtu.be

 

昨日と明日に毎日挟まれて

次から次の今日 強制で自動更新される

痛くない事にした傷が 見失わない現在地

ここから歌うよ

 

これ、泣いちゃうんだよな。

すごいエネルギーがあって、藤原さんも力があって、メンバーは優しみがあって

18歳は爆発してて、ほんとにこの動画は最高、毎回泣いてる。

 

幸せの呪縛

「あなたが幸せならそれでいい」ってだいぶ個人の幸せが尊重される世の中になったよな。裸で生まれて死ぬ時に服一枚着てたらOK、みたいなところからすると大分欲が強いように思えちゃう。幸せじゃなかったら人生否定されるか?幸せの呪縛。幸せじゃなくてもいいから生きるを繰り返して欲しいよ

とりとめなく雑記

Xってわけじゃないけど、そのタイムラインのアルゴリズムによって「思わされる」ことが多くなっている気がする。

 

なにか言いたくなっているとき、なにか「言わされている」可能性を考えないといけなくなった。

そうすると結果的に何を言う気もなくなっていくような。

ネットに反応せず、自然に世界に反応するように心がけなくては。

 

心に決めたことは別に公表する必要もないし、

おいしいものを食べても教えることもない。

特に食べ物は、お金がなかったときにタイムラインに流れてくるのに嫌気がさしてしまって以来、モラル的にできるだけあげる気もなくなった。

なにかを一緒に祝ったりするにはいいかも。世界的なスポーツとかね。

 

youtubeとか観ててもコメントも楽しみにしている自分もいる。

コンテンツだけじゃなくてその反応もコンテンツのひとつ。

 

最近気になることは

良いインテリアの考え方はなんだろう。

ただ綺麗とかおしゃれとかじゃなくて実用的な、掃除もしやすいインテリア。

 

こんな感じの誰も楽しみにもしてない文章を書き綴るくらいが何の目も気にせずいいかもしれない。

 

自分が何を考えているのか、可視化が必要なような。

リアクションではなく。

超個人的ダンス史

コロナもあってダンス周りというのは下火になっていると思っている。

もしくは自分の加齢による関心が薄くなったのかもしれない。

 

自分の加齢によるものはとりあえず置いておいたとして、

自分もこれまで踊っていたけど、コロナがダンスにどのような影響を与えているのか

自分の感覚だけで(裏付けはないけれど)ささっと記したいと思う。

 

まずコロナによって、気軽に「踊る」(踊るにそこまで執着のない人は、サークル的な役割=集まる、というのと同義だと思って良い)ということがなくなって何が起こったかというと、

気軽に踊る人がいなくなった。

気軽に踊る人がいなくなったということは、

ちゃんとしっかり踊りたい人 と それを見る人、で完全に分断された、ということだ。

 

プロみたいに踊りたい、踊りが好きだから踊りたい、そういう人たちだけが踊っている。

テレビのコンテンツも踊りはレベルの高いものが求められ、つまりは見るための(クオリティーの高い、例えばキレがある)踊りを世間は求めていると感じている。

例えば、ひと昔前のAKB的な(恋するフォーチュンクッキー的な)踊りは無くなったように思えている。

 

ここで一旦コロナ前に話を戻すと、

コロナ前は「踊りたくなる踊り」というジャンル、というかそれを良しとする価値観があったように思っていた。

例えばで言えば、ピンクレディーのUFOに始まり、マイケルジャクソン、最近(コロナ前)で言えば、恋ダンスなどだ。

それ自体は実際は難しい(こともある)けれど、難しいを超えて、「なんかできそうかも?」「やってみたい」と思えるような踊りだ。

そんな踊りたくなる踊りの最後は、BTSのダイナマイトか、NiZiUのmake you happy、なような感覚がある。2020~2021年くらいか。

 

ちょっとわかりにくいのが、正確に言えば「踊りたくなる踊り」は存在しつづけているが

その主戦場はtiktokなどのスマホの画面で収まる、顔の周りで収まる、指、手首、肘より先を使ったサイズの踊りに変わっていった。

 

つまりは、全身を使うフォーメーションダンスのようなことはもはやプロの場でしか求められないようなものになっていった。もしそのような踊りが求められる場だとしても、腕を伸ばして大きく回したり、自身が回ったり、するような踊りはサイズ的・価値観的にもはやあまり見られなくなっていった(ように思う)

 

つまり、

コロナ前:

プロによる見るための踊り(マイナー)

恋ダンス的な踊りたくなる踊り(メジャー)

メジャーなものを支えているのは、気軽に踊れる集まれる状況

 

コロナ後:

プロによる見るための踊り(メジャー)

恋ダンス的な踊りたくなる踊り(マイナー・消滅)

個人・スマホの画面に収まるサイズの踊りたくなる踊り(メジャー)

 

んで、これがどこに見えているかというとよさこいである。

自分も少しかかわっていた、よさこいってめちゃコロナ後で需要がなくなっているようなジャンルの踊りなんじゃないかと思っている。

 

正確に言えば、踊り手と観客の境目が曖昧なような踊りが少なくとも私の思う踊りの魅力だったのだが、そこがなくなったと感じる。

もちろん、必死に練習して「見せるための踊り」に昇華させているチームもたくさんあるだろう。

それでも、祭りの現場をみながら、

踊られている踊りは、コロナ以降の振りではなく、コロナ以前の振りのままのような感じがしてしまって(例えば大きく腕を広げて回ったり大味な振り付けに)、

 

(とはいえ、事情的なことを汲めば、私も曲作ったのが正味3年前ですし、それは踊りを想像しながら作ったものなので、その時点でもはや3年前くらいの感覚が出てしまっている踊りでしかないのだが)

 

この今の時代の感覚がない踊りをやっていても、ジャンルそのものが下火になってしまうんじゃないかと思った。

 

今年は、もしかしたら「作ったけど披露できなかった」、つまりは「3年前の踊り」を見ることになるのかもしれない。

復帰戦がそれでいいのか、お客さんはその一回目で飽きやしないか、

復帰戦だからこそ値踏みされんじゃないだろうか。

(だからといってどうしろという話でもなく、自分もその例に漏れず、同情もするし、それは止められないことなんだけど)

 

各チームはその辺、どのようにアップデートしていたのかを期待していただけに

なんか良い意味なのか悪い意味なのか、変わらないんだな、と思わされてしまった。

 

来年は、感覚がアップデートされて見栄えや身体の動かし方も新しいものになるんだろうか。

その時私は何かを思うのだろうか。

 

直近、私自身も新潟に踊りにいくが、

3年前を取り戻すでもなく、3年前できなかったスタートではなく、

今の感覚を加えながら踊らないといけないのだろうな。

それが見ている人に伝わるかどうかはわからないけれど。

 

世界が変わってきている感覚があるから、自分が魅力に感じている部分にもはや需要がすっぽりないような感じがするのよね。

音楽は個人で楽しめそうだから、ぬるっと作り続けられたらなぁと思うけれど。