「がんばること」への哲学
私は高校まで長距離走を専門としていましてその長距離走ってたときなんか結構考えることだったのだけど、がんばるには哲学がなにかしら必要なときがある。
例えばこのレンガを積み上げるのは命令か、塀を作るためか、教会を作るためか。なんのためにがんばっているのか。そういう意味付けって大事なのです。
(それが報酬だったり、仲間のためだったり、期待してくれる人のためだったり、っていうのは外的な要因で。自分のために頑張ることは内的な要因として分類される。)
なんでこんなことを思ったのかというと、今日スペイン語の復習をしていて眠くなる時があったのですね。そこから、昨日、専門とは別分野の就職先に進む後輩が「好きな(分野の)勉強だったら苦じゃないですから」と言っていたのを思い出し
うーむ、好きな分野の勉強ってあるのかな・・・?って怖くなったりしたからだ(笑)振り返ってみても「好きな分野の勉強」で好きなものはないような気がする。別に嫌いなものもないから全てはほぼほぼ同じくらいだ。確かに広告の話を聞いている(受身)ときは少し楽しいけどだからといって自分から勉強するほど好きか、眠気に勝てるのかと聞かれれば微妙なとこだ。受身であればなんだって楽しい気がするけどどうだろう。
私の場合、能動的に動くとき、それは楽しさというよりも使命感というか憧れというかで動いている気がする。
だからついついやっちゃうことではあまりない。ギターを弾いたり動画を見たりするのは楽しいからじゃなくて、こんな風に弾けたらかっこいいな、ってことであってそうなりたいから、そうならないといけないから見れるのであって、できることなら何も見ずに天才的に弾きたい(笑)
そう思うと、ついつい勉強したくなることってなんだろうなぁと思う。こんな風に考えを巡らすことはついついやっちゃうけどそれを追求する方法も思い浮かばないし、第一見つかったとしてもそれを私はやらないだろう。未だ探し中だ。
とかなんというか、そういうものが心のなかにタネとして残っていて、こんな動画と出会う機会があった。
“少女が失った日常”衝撃93秒、日常生活が紛争で一変した1年を表現。 | Narinari.com
Most Shocking Second a Day Video - YouTube
内容は同じですが、PCからだったり英語に強かったりしたら下記からの方が見やすいかもしれません。
なんか、あぁそうだよなぁと思った。
例えば今がんばることがシリアの少女を助けるのだろうか。
そんなことをふと考えてみる。
わからない。
例えば今がんばることがシリアの少女を助けないのだろうか。
こちらももちろん、わからない。
武井壮さん(@sosotakei)がツイートされてた言葉を思い出す。
夢を見つけた時にチャレンジできるかどうかは。。オレならできる!と思えるかどうかしかねえよな。。なんもねー自分でチャレンジすんのは勇気じゃなくてギャンブルだ。。だから夢見つかるまでは必死でなんかやったらできる自分を鍛えんだ。。スポーツも学校のテストも仕事も勝ちてえ時に勝つ練習だ。。
って。
それがスペイン語だろうが広告だろうがギターだろうが考えることだろうがきっと何かを必死でやること、必死でやったらできる自分を高めるために必要なのかもしれない。
勝ちたいときに勝つために。
虎視眈々と準備をしていることが大事。それが直接役に立たなくたって、ね。
がんばることは大事だと今やっぱり思う。それによってそれのスキルがあがる。スキルがあがるからこそ役に立つ人間になる。
今までは努力は無限とか言ってた若かりし時代から、無駄にいろいろ頑張るよりも努力より才能あるところでがんばるべきだ、っていう考え方に変わっていたのだけど、今そこからさらに、たとえなにもつながらなくても(それが見えるものではなくても)がんばれるものはがんばればそれが才能と呼ばれる日がくるかもしれない。ってくらいの捉え方だ。
いや、あんまりその言い方は適切ではないかもしれない。がんばっていれば、シリアの少女にギターを教える日が来るかもしれないし、紅白の舞台が待っているかもしれないし、考え事をしていればそれをすらっと言える日が求められる日がくるかもしれないし、広告は誰かを助けられるかもしれない。
最近私は走りだした。何かの比喩ではなくて実際に。体力づくりだ。これも趣味とはきっと言えないな・・・と思いながら走っている。趣味ではなく、動きたいときに動けるための準備だ。
いざというときに体力が無かったり、助けたい人を助けられないのは悔しい。
そういう勝ちたいとき(勝ちたいと表現するのはいささか語弊があるかもしれないけど)に勝つ練習だ。どれも。
もしがんばればできそうなことがあるならがんばってみたほうがいいかもしれない。
最近はちょっとそう思う。