答えがない、のが答え。ではあるけれど、それは現在における暫時的な、一時的なものであって、常に答えを"求め"ないとやっぱり未来はない。
答えがあると思って答えに依存することも
答えがないからと答え探しを放棄することも
どちらともあまりよくない。
答えがあると思ってひたすら探し続けると、きっと世界は応えてくれると思う。
答えを求める限り、世界はヒントを出し続ける。
答えがない、のが答え。ではあるけれど、それは現在における暫時的な、一時的なものであって、常に答えを"求め"ないとやっぱり未来はない。
答えがあると思って答えに依存することも
答えがないからと答え探しを放棄することも
どちらともあまりよくない。
答えがあると思ってひたすら探し続けると、きっと世界は応えてくれると思う。
答えを求める限り、世界はヒントを出し続ける。
人生はどうにもならないことをどう呑み込んでいくかということじゃないか。
姪っ子が相変わらずぎゃんぎゃん泣くのですが、やだやだ言うんですね。
今回は何かを「遅いね〜」と待ち続ける場面だったのですが
何かを待つってどうにもならないじゃないですか。それが動かないとこちらが動けないのだから。
(確かに待ってる時に、何かゲームをして待ってないように感じさせるというのもある意味吞み込み方でしょう)
でもそのどうにもならない時間ってきっと子供にとってはただただ居心地の悪い時間で泣きたくなるんだろうと思うんです。
思えば、生きていればこのどうにもならないことのレベルが上がっていくのだと思います。
希望の学校に入れなかったとか、就職できなかったとか、好きな人にフラれたとか、大事な人が亡くなったとか。
そういうとき、無力な子供のように泣きたくなってしまうんだろうなぁと思う。(言い換えれば心が自分のコントロール外にいってしまうのだろうけど。)
どうにもならないことをどう吞み込むか。
いくら大人になっても居心地悪いもんは悪いんだけどね。
居心地が悪いときの対処法が決まってたらいいね。ちょっと悪い、悪い、すごく悪いとかでハンドルの重さが変わってくるでしょうけど。
ときには這いつくばるしかないわ。
小さい選択は他人に合わせるようにして、幸せになるようなこともあるだろうと思うけど、
大きい選択は自分で、なんなら自分のなかの「リトル○○」(cf.リトル本田)に聞かないと幸せになるようなことは少ないと思う。
ここで言う小さい選択とは、お昼何食べようとか、どこに遊びに行こうとか、そういう些細な長期間影響を与えないもの。
大きい選択は進路選択や仕事、趣味とか長期間に渡るもの。
小さい選択に対して自分にこだわり過ぎると、うざったい人間になるし
大きい選択を他人や世間に合わせると違和感が大きくなりいつか後悔する。
小さいことは譲ろう、でも大きいことだけは自分で決めなくちゃいけない。
まぁ、どうなるかわからないのが人生なんですけどね。
この前テレビで内村航平さんがインタビューに答えられていて、父親について語るときにこんなことを話されていた。
父親は普段から無口なんですけど、それはつまり「人から言われてからやるようじゃ遅い」って思ってるんだと思います。
人に行動するきっかけをもらうようじゃ遅いんです。
と。
その他、メダリストの先輩の「世界一になるやつは世界一練習したやつだ」といういい言葉もありました。
と、人から言われて行動するようじゃ遅い、というのを考えてみますと、つまり誰が何を言わなくても行動するってことだと思うのだけど、
これって確かに怖いことだと思う。
例えば
この扉を開けていいかどうか迷っていたとして
誰かの「開けなよ」の声をなしに開けるようなことだ。
開けなくてもいい、開ければより辛くなるかもしれない、恐怖が襲うかもしれない、そういう扉を誰の同意や応援を求めるでもなく、開けていく、そういうことのように思える。
これを自分を信じて突き進む、そして誰より練習する、この世界一の感覚に触れることができたことはとても興味深かった。
最近思うのは、やはり抜きん出るというか、充実させるというか、無味乾燥な日々からの脱却というのは、人がやらないことをやるか、人がやることでも人がやらないレベルまでやるか、しかないと思う。
それこそ内村選手についてなんて、よく才能で片付けるけど(番組内では努力の天才と言われてましたけど)、全く同じ努力をしてそれでも相手が上ならそれは才能の差と呼べるだろう。(実際は休んでる間もメンタルトレーニングや集中の度合いもあり全く同じなんて再現不可能ですけど)。
まず同じ努力を誰ができるのだろう。
全員に内村航平さんと同じ努力をすれば金メダルをもらえる確証があったとして、それで内村航平さんと同じ努力できる人は何人いるだろう。おそらくほとんどいないだろう。
それも結局、人からの確証がなければ動けない。
その確証もなく、その扉を開け続けなくてはいけない。そして開け続けた人しか辿り着けない境地がある。
逆に言うと、それができればほとんどの分野である程度生きていけると思う。
誰が何を言わなくても、それを始め、それを続け、更新しつづけること。クオリティを求め続ける、時間を掛け続けること。
諦めそうになったら、ここで降りる人はどれくらいだろう、と客観的に考えてみよう。
(株の損切りはこんなこと考えちゃダメですけど)
多くの人がそこで諦めるなら自分はあと一歩前に進む。
その繰り返しはとてつもない財産になる気がします。
内村航平さんの感覚を知れてやっぱりテレビは素晴らしい。笑
どうも。会社を辞め、トレードでPC画面を見まくって、損を出しております・・・。
なんとかしたいのですが、どうにもこうにもまだ緒がつかめていません。
少なくとも5月中には今後の生き方の方針を決めなくてはと思いますよ。
さて、良いこと(なんというか人の役に立ったり、人に優しくできたり、親切にできたり)したときの話なのですが。
昔は、なにか良いことをしたとして、
それに気づいてもらうことを期待してたりだとか、言いたくなるだとか、そうすることで嬉しさを感じる、ということが頭のどこかにあったような気がするのですが。(こういうのを偽善って言うんですかなんですか?笑)
今では、全然言いふらす気もなく、人に知られるでもなく、まぁ本人だけでも気づいてたら嬉しいですけどね、くらいのレベルで、静かにそのまま死にたいなぁと思います。
なんというか、良いことしてというか人に優しくできたらなんとなく人生の満足感があがりそうな気がします。別に徳を積むとかそういうことではないです。ただの自己満足感です。安らかな顔して死ねそうです。
昔は、自分が死んだら誰が葬式に来てくれるかなぁとか、泣いてくれるかなぁとか気にしてたと思うのですが、今となってはそんな気もありません。葬式開くのは大変で迷惑かかってしまうな・・・というくらいです。
もうそういう「誰が泣いてくれるか」は指標にはならないのです。誰に知られなくても静かにやることやって静かに息を引き取りたいなぁと思います。
そしてなぜか、そういうことを思うのは「良いこと」をしたときです。なにか満足いくことができたとき、あーこのまま静かに誰にも知られずに消えたい、と思います。
なんででしょうね。