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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

【かいまみ】開催のお知らせ

こんにちは。以前もちょっとだけお知らせしたのですが、

いよいよ2週間前となりましたので今一度、ご連絡・告知です~。

 

自分の人生なんて大したことないよなぁ・・・と自分ではつくづく思い知らされるような年頃ですが・・・。ん?ホントに?もしかしてどこかの誰かは君が経験したそれを知りたがってるんじゃない?

もしくは誰かにとってはそれは全く知らないことで、それに触れたことによって何かが生まれることもあるんじゃない?

 

じゃあ・・・・やってみよう。

 

 

というわけで、誰かの一歩は誰かの半歩になる、というテーマをもちつつ、「身近だけど交わることのなかった人生」をコンテンツに発表会イベントを行いたいと思ったのでした。各スピーカーが20分くらいプレゼン形式で発表するのを聴けるイベントです!

 

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ここで語られるのは、誰がというよりも(別に有名人が講演をするわけでもないので)どんなヒトが、どんなコトを発表するのかに重きを置いています。そのため、名前やら所属やらは割愛させていただいているのですが、東大生が地方公務員と働き出した結果(いや過程?)のお話や、私のスモールビジネス(失敗展)のお話(ネタバレしとるやないか)、オペラ歌手のお話(これは私も全く領域外の世界の話なのでとても楽しみです。オペラってどんな世界なのか、声の出し方からお話を聞けます。なんと高3からオペラの道を志したということも伺っているのでそこらへんの転換期のお話も聞きたいです。)、臨床心理×児童の心理のお話(学童でのお話。いいねいいねを欲しがるのは大人の世界も子供の世界も同じく、そしてちょっと過剰・・・?!な「愛されたい」と思うことについての考察です。大人にも通じるところありそう~。)、哲学のお話(思ってみれば私、哲学するのは好きなんですけど、いまいち哲学ってどういうものかつかめないんですよね、きっと好きなんだけどいまいちわかってない。当たり前を疑ったらそれは哲学?ともかく、もやもや考えてたら哲学?日常から哲学のお話、とりあえずぐるぐるしそうで楽しそう。)

 

というようなコンテンツでお送りしたいと思っています。笑

吉祥寺で開催予定ですので、是非観に来ていただけると嬉しいです。

来れないよ~って方はいいね!だけでもいただけると嬉しいです笑。

【かいまみ】

4/23(土)@吉祥寺 Pico Pico Cafe
14:40(開場)
14:50(開演)
17:00(終了予定)
一般:500円(学生400円)

下記イベントページより参加ボタンぽちっといただけると嬉しいです!\(^o^)/

(お席空いている限りもちろん当日ふらっとご参加もできます!)
かいまみイベントページ
https://www.facebook.com/events/1699556360325079/

 

またイベント終了後、わいわいできるパーティもご用意しております。ぜひそちらのご参加ボタンもぽちっといただけると嬉しいです!
かいまみパーティイベントページ
https://www.facebook.com/events/800877846683260/

かいまみ開催御礼パーティ
4/23(土)@吉祥寺 Qwalunca Cafe
17:30〜19:30
飲食代:3000円

 

 

よろしくお願いしまぁぁっす!
Facebookページ詳細はこちら
https://www.facebook.com/00kaimami/

Twitterhttps://twitter.com/00kaimami

 

来たくなりました?なりませんか?笑

 

 

目の前のことをやれと言いますが。

そんなことはなくて、目の前のことをやれば世界が平和になるわけじゃない。

よく言うじゃないですか、新入社員へのアドバイスに余計なことを考えず「目の前の仕事をやりましょう」って。ありゃ嘘だ。
いや嘘じゃないんだけど、目の前に仕事がある前提でしょう。その目の前でいいならそりゃもちろん目の前のことやれってことで、むしろ目の前のことやるのは当たり前でさ。

重要なのは
何を目の前に据えるか。
結局は、よしこれでいくぞという覚悟だ。

2016年。

いっかい思ってたものに腰を据えてみます。
全然うまくいってないけど、腰を据えて一度きちんと付き合ってみたいのだ。

大企業だったらこんな選択は多分できない。
人生で思った通りにやっていいカードが3枚あるとすればそのうちの1枚をここで使おう。
(もう1枚くらいは使用したかもしれない笑)

弱気にならないように。
ポジティブにいられるように。


コミニュケーション齟齬

Q.仕事してて楽しいか?

A.楽しい楽しくないで仕事してるんじゃねぇんだよ!

ていうのは、Qの提示している「楽しさ」という言葉の概念と、Aが受け取った「楽しさ」の概念の差があるからだと思う。
別にQだって、そりゃテレビゲーム、ウイニングイレブンが楽しいか?くらいのテンションでなんか聞いてない。
それなのにAはウイニングイレブンみたいに言うんじゃねぇよ!みたいな言い方になる。
ここでのQは、やりがいだとか職場環境だとか給料だとかお休みとか大変なこととか仕事が人生に与えてる影響とかやり続けられるものかとか、そういうのを含めて「楽しいか」と聞いていたりする。
それをAが単純化してしまったりで齟齬が起きる。

(楽しいか、というのは、「総じて君にとってプラスか?」といったくらいの質問だろう。多くの場合。)

そういうことがいっぱいおきる。
言葉の捉え方、概念の差がコミュニケーション齟齬を起こす殆どの原因だと思う。
その言葉の捉え方、概念、文脈上での言葉の使い方、語彙が近い人間ほど
多分コミュニケーションがしやすい。

優秀か劣等かの話ではなく、各々が世界をどう捉えているかの話だ。

(だからヤバイ、やばい、だけで話が通じるんだね。
そんな奴がいたらきっと良い友人以外の何物でもないわ。笑)

卒業する君へ

卒業おめでとうございます。

 

出典がどこかももう忘れてしまったのですが、25歳までは儀式が必要らしいです。

卒業式なり、袴を着るなり、追いコンするなり、そういう儀式があってこそ次のステージにうまく進むことができる、そう聞いたことがあります。

 

無事に卒業式を終え、また入学式、入社式、など儀式を乗りこなし、だんだんとそして急に変化するこれからにうまく順応できることを願っています。

 

さて、儀式を終えたとて、その儀式が必要なのは25歳までだと書きました。入社で言えばちょうど3年目を終える頃です。3年目を終える頃君たちはもう儀式など必要ありません。むしろ儀式から巣立たなければなりません。日取りなど決まっていません。誰も特に何も言ってくれません。あなたがどんなに希望に燃えていようが、どんなに絶望していようが関係ありません。

そこから何を見出すか、はたまたどこへ向かうのかあなたの選択次第です。

 

終身雇用制度が崩壊したと言われて久しいです。安定した大企業なんて世の中にはない、などと言われて久しいです。どうでしょうか。日本は変わってきたと思うでしょうか。個人的にはまだまだ変わってないなーと私は思います。もちろん大海原に飛び出す方々はたくさんいます。転職だって珍しいことではなくなりつつあります。

 

変わることは大変に厳しく、怖く、不安で。

守られていること、変わらないこと、今までの常識が通じることは、それを好むと好まざるにかかわらずとても簡単で、優しく、安心をもたらせてくれています。

無意識的に、今までの常識が通じる世界こそが現実の世界なのだと、思いたくなるものです。-悪いことをして痛い目にあえば「バチが当たった」、なにかがうまくいっても「そんなにうまい話はない」と自分を制御してしまいます。(自分の中の)常識で生きていきたいからです。-

 

「見てきたことや聞いたこと今までの覚えた全部、デタラメだったら面白い、そんな気持ちわかるでしょう?」そう歌っている誰かがいます。あなたにはそんな気持ちわかるでしょうか。

 

つまりこういうことだと思います。結局は常識なぞ私らが、そしてあなたが「見てきたもの、聞いてきた」"程度"のものでしかないのです。見てきたもの、聞いたことは確かにあらゆる場面で常識となり味方になってくれますが、反対にそれらは私らを抑え込む足かせなったりしているのです。

 

そして、その時その足かせを外す唯一の方法といえば逆説的ですが"さらに見て、さらに聞くこと"なのです。デタラメも真実も取り込んで、君が選び取るのです、君の人生を。

 

そうして"選び取った"人生はきっと何よりも君を輝かせる。

 

卒業後の進路で、1年で、2年で、5年で、10年で、全てが決まることはない。

さらに見よう、さらに聞こう、人を、世界を、物事を。

 

そうして君が"選び取る"その日をまた心待ちにしています。

 

いかに知らない世界が広がってるでしょう。どんなにひどいことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、どんな嬉しいことも、どんな楽しいことも、どんな驚くこともきっと世界は見るに値する、聞くに値する。目を凝らして、耳を澄ましてください。

 

 

卒業おめでとうございます。ようこそこちら側へ。

選び取ろう。

 

2016年3月吉日

上にいるのは。(そして人の人生を覗いてみるイベントの告知)

比べる対象が、無職になってからフロリダディズニーで働いたりする先輩だったり、

卒業前に塾を起業する先輩だったり、

海外で働く女子を応援するジャーナリストだったり、

海外青年協力隊でアフリカに行った後英大学院に行く先輩だったり、

都議会の議員になった先輩だったり、

 

そういう方々と比べると、わたしのやってることはうんこみたいなものなんです。

でも比べてまだまだ天井は高いのねぇとも思います。

 

うんこなのよねぇと思うだけでもしょうがないので、

まぁ出来る限り必死に生きるだけなんですけど。

 

(ここで終わらせようとしたけど、告知がございました笑)

 

というわけでちらっとイベントのご紹介を。

かいまみ というイベントを発信してみることにしました。

リリース。パチパチパチ。

 

2016.4.23(土)吉祥寺のカフェにて「かいまみ」を開催致します!

かいまみとは、
他人が今までしてきたこと
他人が今まで考えてきたこと
今日までの人の生き方を【かいまみ】れる発表会です。

十人十色の人生、自分以外の人が何が好きで、何に興味があって、何に向かっているのか、はたまたもやもやしているのか、そんなことがちょっと知れるイベントです。
5人の各スピーカーが20分程度、好きなこと、考えたこと、経験などなどのプレゼンを聴いて(かいまみて)いただく形式となっております。みなさんどんなこと考えて過ごしていらっしゃるのでしょう。

なにかちょっと違う世界を見てみたい方、転職、就職、将来をお考えの方もぜひ、お越しください!!

詳細はこちら。(カミングスーン等は随時更新してまいります!まだまだ興味深いスピーカーが登壇予定です。見切り発車ではございませんのでご安心を。笑)

 

【かいまみ】概要
2016.4.23(土)
14:40~17:00
開催場所:ピコピコカフェ(吉祥寺駅徒歩5分)
入場料:一般 500円
    高校・大学生 400円
終了後(17:30~)開催記念パーティ開催予定
飲食代:3000円
※別途要お申し込み
 氏名・年齢・性別・電話番号を明記の上
 00kaimami@gmail.comまでご連絡ください。

 

Facebookページ

Facebookイベントページ

 

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詳細はまた数回にわたってご紹介していく予定です。ぜひぜひ。

人の消費


「(自分はそうじゃないけど)夢に向かってビンボーでも頑張ってる人を尊敬する。」みたいな発言を見ると、「人が消費されてる…」と思っちゃう。

誰かと別れた時に「幸せになってね」とかSNSに書き込む行為もそうだし、言うなれば誰かが亡くなった時「どれほど悲しいか」なんてSNSに書くのもそう感じてしまう。

誰かの熱意を、誰かの幸せを、誰かの悲しみを、誰かの死を、自分を演出する道具として使う。

 「ねぇ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。(ダンス・ダンス・ダンス/村上春樹)

それをどこに書いたら装飾品だとか線引きはないけれど、口に出して、みんなに見てもらうことで、自分の装飾品にしてしまう。

誰かの人生は君の人生の装飾品じゃない。人の人生で着飾るんじゃないよ。


例えば夢を追う友人がいたとき、自分ができうる行動は今の所ふたつだ。
ひとつはその人の夢が叶うようにひとりでも多くに拡散すること。「ビンボーだけどいい曲書くんだ…」なんて呟いたってその人のためにならない。いい曲だと思うならそれを価値だと思ってくれる人に届くように、リツイートなりシェアなりすればいいだろう。

ふたつめは、悔しがることだ。夢を追っている人間で自分を飾ろうとせず、それができない自分を悔やめ、そして今すぐ負けないように行動に移せ、ってなもんだ。

ジャーナリストの竹田圭吾さんが亡くなったとき、私にできたことは、どれだけ素晴らしい面白い人だったかということを伝えるだけだった。縁もゆかりもない私がSNSで冥福を祈って何になるのだろう。何のアピールだろう。人の死を利用して自分はこんなにも知見の広い人間だとアピールするのだろうか。人の死はそうやって消費されるのだろうか。冥福なら静かにひとりで祈る。

 「ねぇ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。(ダンス・ダンス・ダンス/村上春樹)

そういうある種の物事がどんどんSNSで消費される。みんな口に出す。悲しさも悔しさも喜びも驚きも。

それ自体否定しないけれど、結局そこで終わってしまう。

胸にしまって、何度もなんども反芻する、反省しきれない経験がある、いつまでも悔しい、いつまでも悲しい、それが詰まるところそれほど重要な体験をしたということなのではないだろうか。

悲しいことを悲しいと口に出して終わり、そんな簡単なことではない。

もしかしたら村上春樹さんが言うように、これは礼儀の問題であり節度の問題なのかもしれない。

口にすればするほどに物事は軽くなる。

他人の人生で自分を着飾りたくはないね。



なにかおかしい。

毎日乗る電車はそれほど満員じゃないけど、ある日満員の電車に乗る時があって、誰かが倒れて緊急停止ボタンが押された。



誰かが倒れるのは本当に怖いことだけど、それが都内で1日数回くらい起こっていそうなことを想像するのは簡単だった。

暗殺教室の弱者戦略と作品に触れること

※ネタ(セリフ)バレます。

今週のジャンプを読んだのですが(愛読者)
暗殺教室が素晴らしかったのでちょと書かせてください。


知ってる人向けに書くのであまり細かい説明はしませんが、このあたりのセリフにじーんときてしまった。

E組の制度は間違ってるから変えさせよう、とか そういう事は一度も言わなかった

理不尽な事が世の中にあるのは当たり前
それを恨んだり諦めているヒマがあったら……楽しんで理不尽と戦おう。


これって、殺せんせーというよりも、松井さんの言葉のように思えて。

昔、SWITCHインタビュー 達人達(たち) - NHKというインタビュー番組で松井優征さんとデザイナーの佐藤オオキさんが対談していて、松井さんが「絵が下手ですから、完全に弱者戦略で漫画描いてます」とおっしゃっていて、(ユーチューブに転がってるっぽいので見たら良いかと)
絵の上手い下手だけでなく、構成やコマ割りなどなどで差別化を図るという松井さんがとにかくなんだか印象に残っていて。

それでもう最終回まで2話というところで、こういうメッセージをセリフに出されるという意図に松井さんとしてのメッセージがあるような気がして心にぐさささっときたんですね。

何が意図してあるかわかる作品、経験や言葉が自分の中で繋がる作品、そういう作者が投げたボールを受け取れたかも、と思える時はよくわからないけれど、結構嬉しくなる。

日本アカデミー賞での岡田准一さんも、(意訳ですが)「演技というものを初めはわからなかったけど、なぜこのシーンを撮るのか、このセリフで、この演出なのか、ということがわかり始めてから一気に楽しくなりました」的なことを言っていたけれど、それに近いことだと思う。

なぜだろう、作品に対する意図を拾えるととてもドーパミンがでる感覚がある。

ほら、もののけ姫でも、アシタカはまだ若い象徴として帯の位置が高いんだとかさ。

いや、知ったらなんなの?って言われちゃあおしまいなんだけど、その細かなところで世界観を作る手法や、細かいところまで息の届いた配慮に、人の存在を感じるのかもしれません。
松井さんや岡田さんや宮崎駿さんと会話した気分になるのかもしれません。単純に会話が楽しいのかもしれません。

選ぶ言葉も秀逸なのですが、作品を通じたコミュニケーションを感じて、言葉だけで伝わるというのは難しく、全力を行き届いた作品というコミュニケーション媒体もあるよなぁと思ったのでした。(コミュニケーション媒体とかいうと冷めた感じしますね笑)




理不尽な事が世の中にあるのは当たり前
それを恨んだり諦めているヒマがあったら……楽しんで理不尽と戦おう。




感じたこと思うこと言葉にすること

こう呟きたいけど結局それは自分をこう見せたいからとかいう思惑を感じてしまって先回りしてダサいな…と自分で思ってしまって閉じることが最近よくある。うごーん。休むか。

 
何かを感じた時、言葉にするのは難しい。
どうだった?と聞かれてそれを端的に表す言葉が見つからない。
いつも相手が求めている質問の答えに沿えているかどうか自信がない。
 
自由きままに書いていこう。ここは誰も分量など気にしない。
今日は意識が高そうな社会起業家のプレゼン大会みたいなイベントに観客として参加しました。
批判や指摘なんて外から見る側からやるのはとても簡単で、いちから作り上げる土台を作る仮説を作ることが大事で、それを行動させることが大事で(それをいうとみなさんすでに活動して数年みたいな方々が多くてうかうかしてられないなーと思うのですが)、ひとまず自分が何ができるのか考えるべきだとは思いました。
 
脈絡なく単語だけ並べていきます。
こういう頭の整理が必要なのです。
なんでこの場所でプレゼンするのか、売り込むためか、営業のためか、メーカー展示会だと思えばいいのか。そうすると、ウチでやって、お金出しますレベルに達していることが大事なのか。
一回の実践の方がよほど、効果はあるのだろうと思うけれど(もちろんそうやって実践されている方ばかりなのですが)、技術不足のときのブレイクスルー人材を求めてやってくるのか、果たして助言はユーザーとしての意見なのか、まぁ清濁併せ持って意見を聞くことがそもそも大事なのだろうとは思うけれども。どうしても壁にぶち当たっているとき以外アドバイスを聞くのはあまり意味がなさそうとちょっと思ったりもする。なんというか、意思確認会にしかならないんだよなぁ。次のステップに進むのにはどうしたらいいのか。何が考えられるのか。会社の役員以外呼ばないのか、クラウドファンディングするのか、情報が欲しいのか、人を繋いでいきたいのか、それってそもそも自分たちのマーケ領域でどうにかできないものなのか。プレゼンをするということは営業的意味だけじゃなくて聞いてる人にもなんらかのメリットがあるはずで、それっていったいなんだろうなぁと。決定権持つ人からすればそのベンチャー面白そうだからウチでやってよ、みたいな感じなのかなぁ。ある立場がないと役にも立たないのかなぁ。
中肉中背ガキの頃から褒められも叱られもしないで育った人が無所属だったら本当に意味がないのかな。
職業や立場が人を測る指針なのか。
 
うーん、もはや肩書きはステータスとして割り切って手に入れるべきものなのだろうなぁ。
肩書きのない人みんな信用しないでしょ。
これほんと好きじゃないんだけどな。肩書きに頼ってその人を見えなくさせるし。
 
とりあえずここまで考えたこと頭をよぎったこと。
 

世の中思った以上にタイミングだ。

20代も半ばを過ぎて思うのは、人生は思った以上に、想像以上に、タイミングによって成り立っている、ということである。

 

若いころは(まだ若いけど)、タイミングとか関係なしに、実力なりがあればその物事はあるべきところに収まるのだろうと、そう考えてた。

 

でも、人生は結構違った。タイミングの方が重要に作用するといって過言ではないだろう。言い換えれば、人は思ったより惰性で生きている生き物、そうとも言えるかもしれない。

惰性で生きたりなんかしませんよ!!そう若いころの僕なら言う、君がどう生きてようが世間には関係ない。世間はごく控えめに言ってとても惰性で流れている。

 

惰性で流れる世界に、タイミングの要所を見極めずに入っていけるだろうか、無理だ。

思った以上に、「たまたまそこにいた」とか「たまたまこんな経験があった」「たまたま彼氏がいなかった」「たまたま恋人と別れた直後だった」「たまたま恋人がいた」「たまたまそこに生まれ住んだ」そんなものが人生の大半を占めているんじゃないだろうか。

 

 

となんか、わかったふうなことを言いながら、こういうことを一番感じるのは恋愛関係においてだと思う。

恋人がいなかったら付き合ってた、とか、そのときそんな感情にならなかったけど(今思えば・・・)とか、その時の環境、関係が左右する。

かくいう私は、ぴったりないい人がいれば誰と付き合っていようが、すべての人は別れてその人と一緒になるべきだと(今でも)思うし、別れられた人もぴったりな人がどこかに存在するのだろうと思っている(だからいずれみんな幸せになるじゃん?)、けども、現実はそうじゃない。

 

付き合ってたら別れられないな~という人もいるし、第一そこまで恋人に関して100点求めないから現状で満足みたいな人もいるだろう。そんな風に世の中回っている。回ってしまっている。(点数つけるのはおこがましいですがまぁ便宜上許してくだされ。)60~80点以上かつ許せないところをクリアしていればほとんどの人は結婚するのではないだろうか。若いころ僕はそんな想像できなかった。

 

今思えば、自分から告白した人はほぼ9割方振られているような・・・。タイミングを考えない良い例である笑。

(タイミングが全てだったのかどうかはさておき)

 

何を言いたいかというと、自分が思っているほど、世界はそのように動いていないということ。

些細な事で、半径5メートルで物事は済んでいるということ。

愛は国境をいきなり超えたりしない。

国境を超えたからこそ愛があるのだ。

 

 

 

あの日、あの時、あの場所で、君に出会えなかったら僕らはいつまでも見知らぬ二人のままである。

つまり、現実的に言えば

あの日、あの時、あの場所で、(彼氏のいない)君に(素敵な感じで)出会えなかったら僕らはいつまでも見知らぬ二人のままである。

 

世の中、タイミングである。

だから絶望や失望をするわけではなく、自分の想像していた世界との違和感にちょっとだけ戸惑いながら、人生観を修正していく。

 

こんなこと以上に理不尽なことはいっぱいあって、いきなり奪われる命や、病気と闘う方もいて、こんな人生なんかじゃないと思うこと多々あると思うんです。そういうのがすべてタイミングやとは言いませんしそこまで重いものを想定してないのでこの本旨とはずれるのですが、生きていくのが長くなればなるほどそういうことに体験する確率は高くなって、でもそれでもその「ちょっとしっくりこない、想像とは違った人生」をどう生きるかということに収斂されていくのだと思います。やだやだ言うたって時間は流れるわけですから。

 

だから、想像以上にタイミングとかって大事で、いつでもそんなんできるわ~とか

いずれこうなる運命だろう~とか、2回同じ場所で会ったら運命ね、とかそういうことじゃなしに、その時その時にちゃんと掴んでないといろいろなことを後悔することにもつながってしまうかもしれない、タイミングに感謝して、全力でベルト奪いにいかないといけないね、と思うわけです。

 

 

なんかごちゃごちゃしちゃいましたね、感情がでちゃいました。

それではまた。