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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第2幕。

悪いことはやったもん勝ちに勝ちたい。

ここで一切議論する気は無いけど。

 

ずっと考えたけど、悪いことはやったもん勝ちの側面がある。例えば通り魔は、犯人は目的を達成してしまっている。だのに善良だった被害者は戻ってこないし、ましてやその人を失って悲しい人の苦しさは一生癒えない。犯人を殺したいと思えどそれは自分の理性と道徳が許してはくれない。極刑に至ったとしても失う苦しみを誰が、犯人がわかるでもない。

 

失う悲しみ怒りだけを考えれば悪いことはしたもん勝ちだ。ポイ捨てだって列に割り込むことだってなんだって。周りがそのエネルギーを泣き寝入りして受け止めたら。受け止めざる得なかったら。

 

だからでも口で言うのは簡単だし、月並みな出口だろうけど、それをされて失う悲しみ怒りよりもそれをしないことで得る楽しさ嬉しさが勝らなきゃいけない。得る喜びが失う悲しみを上回らなきゃいけない。少なくとも得る喜びの方に目を向けなきゃいけない。損得で言えば損かもしれないけれどそれでも。

 

それが自分だからと言えば至極まぁ個人的な出口になっちゃうのだろうけど。そして得る喜びと言えど人はそれに鈍感だから。失うものには敏感で得るものには鈍感だ。得ているものをもっともっと大事に大切にしなきゃとは思うけど。できてるんじゃろーか。終わり

 

悪いことはしたもん勝ちみたいなことに勝ちたい。せめて自分の周りだけでもさ。

走る夢

今までずっと走っても進まない夢、走りたくない夢ばっかり見てたけど。

 

走った夢を見た。

 

自己ベストには及ばないけどセカンドベストくらいのタイムで走った夢。

 

身体はわかっている。

 

もう少しだ。

 

足が動き始めた。

 

 

そう思いたい。

 

 

サラバ! 夏の感想文

先日、図書館から本を借り、西加奈子著・サラバ!を先程読破した。

 

こんなことを書いている場合ではないという状況ではあるのかもしれないけれど、そもそも「こんなことを書いている場合ではない」ことは誰が判断するのだろう。結局書きたいから書く、それに勝る理由はきっとあまりない。だからとりあえず書く。

中身もネタバレになるかもしれませんので、注意して下さい。

 

 

先程、書きたいから書くといったけれど、私は見ていて踊りたくなるようなダンスが良いダンスだと思うし、見ていて歌いたくなるような歌が良い歌だと思う。つまりその人、ダンス、歌、に「動かされる」ことが(評価、というか物事の善し悪しを考える捉えるうえで)重要な衝動なのではないかと思う。

この作品も、そういう意味で自分が感想文にしろ「書きたい」と思わされる文章であり、いまこうして文章を打ち付けていることが良かったと思える証拠なのではないかと思う。「歩」が書いている文章、小説はきっと誰かを動かす文章なのだ。

 

さて、この小説はずっと歩くん(敬称が難しいけどくんづけにする)が一人称で進んでいく文章で、ずーっと結構話が進まず、いやドラマがなく、淡々と進んでおり、なんじゃこらー、と思っていた。最後になるとそれは当たり前で、歩くんの(自叙伝のような)人生の話なのだから当然なことがわかる。読みながらでも、歩くんの小説に対する感動が大きかったり、書くことへの衝動が描かれている点において、何かしら今後歩くんに関係があるのだろうと思っていた。伏線が伏線であるときから伏線であると感づいた(そしてその輪郭をはっきりさせるように書かれているのだから、あるいは感づくようにできていたと言ったほうが正しいかもしれない)。

 

この小説を読んで、その昔、スティーブ・ジョブズがこんなことを言い残していたことを思い出した。

もう一度言います。未来に先回りして点と点をつなげることはできない。君たちにできるのは過去を振り返ってつなげることだけなんだ。だから点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。自分の根性、運命、人生、カルマ、何でもいいから、とにかく信じるのです。歩む道のどこかで点と点がつながると信じれば、自信を持って思うままに生きることができます。たとえ人と違う道を歩んでも、信じることが全てを変えてくれるのです。

 

いま引用して驚いたけど、サラバ!という物語はこういう物語だったように思う。スティーブ・ジョブズはこういうふうに生きる人生がどういう人生なのかを体現していた人だけれど、歩くんはそういう人生、こういうふうに生きることまで、こういう人生にどうにかしてたどり着こうとした(あるいはたどり着いた)人(の小説)だったように思う。

歩くんが書く仕事へ天啓を受け(そんなに大げさなものではないけれど)、その道に進むことはさっきも書いたように伏線があったし、いつも姉から逃げ、自分一人で悶々とし、他人に対してどう振る舞うべきかを考えていた様は、小説を考える上では重要な"才能"といっても良いのではないだろうか。才能というよりも経験と言ったほうが正しいかもしれない。最後には幸せそうな友人と比べ何もない禿げたフリーターのように描かれるけれど、そういうことも全部今まで点を打ってきたその先に、今までの全ての点を繋げたものとして(小説内の表現を借りるならば)"今までの人生の頂点に今の僕が立っている"ということになるのだろうと思った。そしてそれを認め(小説内の"大きな化物"と)一緒に生きていく覚悟ができたということが何よりもこの物語の昇華であるように思える。そしてその昇華に私は感動した。感動という言葉が適切なのかわからないが、歩くんが歩みを始めるとき、感情を持って行かれた。きっと多くの人にとって実生活でもそういう歩みを進めるような場面はあるのだろうと思うけれど、それがどんなに尊いことかを改めて感じさせられたのだ。

 

 

この言葉にも集約されるだろう。

あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。

 

姉の思考を借りるならば、それを認めたとき人に芯ができるのだろう。

 

 

思えば、何かしらの答えはどこかしらにあると思う。今回は、歩くんの書くことへの興味や悶々と考える事(それはいびつと思っていた家族があったからこそかもしれない)、の点たちを繋いでいく線は小説という答えにつながっていた。現実の生活の中でもきっと歩くんの"小説"にあたるような答えは人それぞれにあるのだと思う。今までの過去を全て説明できるような、このために生まれてきたのかもしれないと思えるような、そのためにはやっぱりあれが必要だったんだと思えるような、そのルートはそこを通る以外に存在しなかったかのような道筋が見える"時"や"答え"がどこかにあるような気がする。(逆に言えば、そういう"答え"や"時"は今までの全てを肯定し、繋げてくれるくらい強力なのだ)

 

 

 

西加奈子さんの作品を読むのはこれで2作目だけれど(前回はきりこについてだった)、なんというか優しさに溢れている感じがした(そして猫好きなのは間違いないと思った)。なんというか「人ってまだまだこんなもんじゃないぞ」「生きろよ」みたいなメッセージをどことなく感じる。小説を読んでくれている人のうち一人でももし救うことができたら、と思って書かれているそんな感じがする。(なにを持ってそう言っているのかは自分でもよくわからない)ともかく優しい人なのだろうと思う。

 

 

結局は自分自身。

最後に私が最近好きな言葉を書いて締めたいと思う。

「小学生の頃、学校でうんちをしたら終わりだと思ってただろう。あれ、違うんだよな。うんちをしたら終わりなんじゃなくて、学校でうんちをした男の人生が始まるんだ。」

 

そうなんだよなー、肯定してからがスタートなんだよ。

 

 

サラバ! 上

サラバ! 上

 

 

 

サラバ! 下

サラバ! 下

 

 

何度でも

まだ死んじゃいない。

悔しいから書く。

こんな悔しいのはもう終わりにさせるでよ。

 

ネガティヴな感情では動かない。

甘くも辛くもない。

 

足りてるか足りてないかだけ。

足りてれば開けるし足りてなければ開かない。

3歩進んで4歩下げられ

3歩進んで3歩下げられ

3歩進んで2歩下げられる。

3歩進んで1歩下げられるようになったらようやく前に進める。

 

 

分岐点

だんだん中身も伴わず、外見だけ立派になって、満足して。

これまでで何ができるようになったの。誰を助けられるの。誰の力になれるの。

なんで大学でたの。

自分の外見を立派にするためか。

自分の満足高める休日を過ごすためか。

なんのために必死に勉強したの。

自分が見下す人に講釈を垂れるためか。

SNSで自慢するためか。

一歩

倒れこみそうな時、倒れまいと踏ん張ったその足が一歩。その連続。

 

優しいということ

‪人に優しくできたとき、感謝されたときこんなことがあったとそれを人に話すのをやめよう。それを当たり前に自分の中で消化できるようになったとききっと本当に優しくなれる(ような気がする)。

ぐっとこらえた先には違う景色があるはず。‬

 

褒めてもらおうなんて思うんじゃねーぞ。

加速するために前を向いて


ケツメイシ トレイン

 

高校生の時聴いた曲。

その時もいい曲だなぁと思ったけど、今聴くと感じ方が全く違う。

もっと深いところでこの曲に会っている感じ。潤む。

突き抜ける感覚・意志

ずっと土曜日 朝9:55~10:25 フジテレビで放送されているグータッチが好きだ。

 

ライオンのグータッチ - フジテレビ

ライオンのグータッチ 夢を追いかける全ての子供たちの成長を見守る応援ドキュメントバラエティ。

 

概要としては、公式戦で一度も勝ててないチームだったり、ずっと負けっぱなしで競技を続ける子供を対象に、その道のプロの方が指導をしてまず1勝だったり、1点だったり、全国大会へだったり、優勝だったりを目指す(のを追っかけていく)番組。

 

これが本当に面白くて、子供が変わっていく様がほんとに見違えて、負け癖のある子供、本気で取り組めてなかった子供、どうやって練習したらいいかわからない子供が何かを掴んで、目が変わり、必死になる姿、そして結果を出す姿、結果が出せなかったときには(今まで流すこともなかった悔し)涙を流す姿、そういうものに心が動かされてしまう。

 

やっぱりどこか勝者と敗者のボーダーラインはあると思う。勝者は勝者になるだけの努力をしてきている。(もちろんその中には才能もある考え方もある知識もある)

そこで、「勝つ」もしくは「人に評価される」もしくは「結果がでる」「変化が起きる」っていうのはこういうことなのか!と感じることはとても大事だと思う。

 

だからこそ、努力を信じることができるようになる。結果を出した人を「才能」の一言で片付けずに、裏にどれだけの辛さがあったのか想像できるようになる。彼も彼女も私以上に努力したのだろう・・・と称えることができる。私以上に努力したやつなんかこの世にいないと自信に変わることもある。

この感覚を言葉で理解させようと思っても難しい。

そしてこの感覚は幼少期に味わってほしいなぁと思う。子供の世界で努力しているやつって少ないから、その世界では多分結果はついてきやすいと思う。(その代わりセンスあるやつがずば抜けて勝ってるけど、それを除けば、子供の伸びっていうのはかなり顕著だと思う。)

 

ここからはちょっと自分語りだけれど

自身がずっと陸上競技の長距離をやっていたけれど、小学校の時にマラソン大会があったのがきっかけだった。学年で10位内に入ると校内で放送されるのだ。だから10位内になんとか入りたいのもあって、校庭を1周するごとにマスを埋められるすごろくみたいなものをかなりやったし、家でもちょっと走った(そこを友達に見られると恥ずかしい気にもなった笑)。

んで当日、どうにか10位になった。「マジか」と思った。

でも11位になった子とも知り合いで、そいつは傍から見てもがむしゃらに頑張るキャラだった。だから別の知り合いの女の子に「え~、○○(11位のやつ)も頑張ってたから譲ってあげればいいのに」というようなニュアンスのことを言われたのを覚えている。

なんというか私は頑張ってないように多分見えてたのだと思う。こいつは俺がどれだけ「走ってきたかを知らないのだ」と思った。いわゆる「才能」でやってんだろうと思われたんだろう。弁解する気にもならなかった。苦笑いしたくらいだ。でも印象に残ってる。自分は間違っていないと思ったのは覚えている。

 

もう一つは

そのまま陸上をなんとなく続けて、中2のときにタイムが全然伸びなかった冬、闇練だー!といって(まさしく厨二感)部活が終わったあと夜家の近くを30分jogを追加してた日々があった。それがどうなるとか全く思ってなかったけど、ただ追加して走ればタイム伸びるかもくらいの感覚だった。

んで、春に記録会があったとき、3000mのタイムが一気に30秒くらい縮まって(9'55"→9'26")自分でびっくりした。「マジ?」と思った。経験則だけど中学高校くらいの陸上ってタイム出るときは一気にぶっ飛ぶ気がする。このときもまわりは「男子は伸びるんだよな」みたいな見方だったけど、「それは違う」と思った。人知れずやってたことがいきなり結実した瞬間だった。(思うんだけど、お前ら本人の努力と想像する余地はないんか笑)

 

そういうなんか、人よりも突き抜けた努力だったり時間の使い方をすれば、結果も突き抜ける(こともある)ということを感覚的に知ったのはこの辺だったかもしれない。

高校でも高1から受験を意識してたな・・・笑。お前ら全員ぶっ飛ばすくらいの気概はもってた気がする笑、なにがどうぶっ飛ばすのかわからんけど、勉強だったらぶっちぎりで勝つみたいな。笑

 

とにかく、ぶっちぎりのことをすればぶっちぎりに結果がついてきやすいのが幼少期だと思う。そのときに経験していれば、大人になったとき今ぶっちぎってる人がどれくらい何をやっているのかということに想像がいく(なにも知見のない分野だとこれを想像するのがホントに難しいのですが、断片的でもいろんな情報を集めるしか無いと思う)。大人になったらぶっちぎって当たり前みたいなそういう世界になってくると思うのでそういう成功体験を簡単に得ることは難しい。

 

だから、基本的に私も例えば労働なんかは、土日もできちゃうくらいじゃないと突き抜けられないのではないかと思う。土日も働けという意味ではなくて、土日も捧げても問題なく思える事柄に就いた方がいいと思う。土日も使ってぶっちぎろうと思える職は天職なのだと思う。(だからといって、別にみんながみんなぶっちぎって仕事したいと思っていないこともわかる・・・。それはほどほどに仕事をしてほどほどにプライベートを生きる、そういうのが心の底から楽しいと思う人もいるだろう。)

 

ちょっと前だと私も土日に労働は嫌だな~と思ってた。でも土日に労働が嫌なのも嫌だな~とも思ってた。もちろんまわりには、ほどほどに仕事をして土日はしっかり遊んで、毎日充実した(私からすればほどほどの)人生を愉しんでいる人も多い。それがある種の終着点だとも思う。

 

でも私はどこか、新しいことに挑戦してる人、突き抜けようとしている人、突き抜けた人がやっぱり魅力的に見えてしまう。

 

多分自身の尊厳とかプライドとかにもつながる気がする。どういう生き方している自分が自分で誇りを持てるか。肩書とかお金じゃなく、人に自分がしていることを自信持って話せるか。昔は卓球の愛ちゃんを目の前にしても自分の小ささを感じるばかりだった自分だけど、今ならあの時よりかは少しマシに話せる気がする。それは肩書じゃなくお金じゃなく、住む世界は違えど、お互いにぶっちぎろうと思って日々積み重ねているから。多分の回りにいる人が自分のレベルだよっていうのはこういう意味なのだと思う。

 

ということで私も今突き抜けようとしているところではあります。

f:id:naga-yu:20170225120333j:plain(つまりこういうことだと思うのです。カイジより)

 

世界を変えられると吐くのは大学生までかもしれないけど、1周回って今そんな風に思えるのはよほどの馬鹿か、本物か。根拠のない自信を持って良いのは幼児までですが、根拠がないわけじゃなく、この道をいければ多分世界は変えられる。世界とまでは言わなくても半径100mくらいは変えられるのではないか、と思ってる。

突き抜ける、それができるほどの時間が人生にはある。たぶん。

試験(は10年前でした)

週末はセンター試験だ。

大雪の予報もあるみたいで、どうかお気をつけて挑んで下さい。

 

この歳になって思うけれど、センター試験は厳しく言えば

勝者と敗者のボーダーラインがはっきり引かれるいわば試合だ。

そして人生においていくつかある試合のうちのひとつだ。

おそらく20歳前後の自分にとってはその試合が人生最大の試合かもしれない。

勝者や敗者などを好むと好まざるにかかわらず意識させられるかもしれない。

 

これまでの努力や我慢が実を結び、大いに健闘できることはもちろん祈っている。

がんばれ。マークシートのずれだけは気をつけろ。

 

 

でも、結局勝者と敗者に分かれるのがこの試験というシステムだ。

それはおそらく残念ながら単純に”どれだけ努力をしてきたか”で決まるものではないだろう。たまたまど忘れすることも、たまたまマークシートがずれることも、たまたま覚えたところがでることも、たまたま冴えてることもあるだろう。

 

でも、結果は非情だ。自分より勉強してないやつが受かることもあるだろう。自分より勉強したやつが落ちることもあるだろう。

その時、「努力は必ず報われる」などと言えるだろうか。単純に努力が足りなかったのだろうか。

 

綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、10年経った今思うのは、

確かに結果はもしかしたら運に左右されるかもしれない、でも、努力や行動は運ではなく、何に左右されるものでもなく自分が決められる"選択"であるということ。

書店にいって良さそうな参考書・問題集を探そうとした行動、わからないところを先生に聞きに行った行動、深夜にひとりで机に向かった行動、単語帳を何回も何回もめくった行動。すべては自分が選んで、選択してした行動だ。

その行動を選択したということが一番尊いと思う。

 

今は試験が人生最大の試合かもしれないけれど、人生における試合はこれからも結構多い。社会人・恋愛・スポーツいろんな試合がきっといろんな場面であるだろう。何も1回の試験だけで全てが決まるわけではない。決まるわけではないし、結果がでたら出たで次の手を考えなければならない。何かを選択する、行動する、その結果を見て聞いて感じて、また考え、新たな選択をしていく。生きていくって結構そういうことだ。ちなみに生きるほど人生の難易度はあがっていく。

 

でもそのときに、どれだけの行動で物事がどうなるのか、ましてや一度地獄を見るとどうなるのか、どれほどの努力によって実を結ぶのか、試合に勝つというのはどういうことか、試合に向けて努力をするというのはどういうことか、知っているというのはとても重要なのだと思う。

 

私が挫折経験をしたのは試験ではなく、今この瞬間なのだけれど、これをもし試験のときに味わえていたら人生はもうちょっと変わっている気もする。いい意味で。

 

だから結果に一喜一憂するな。と前日に言うのもなんだけれど笑。

すべての人に良い結果はもしかしたら出ないのかもしれないけれど、それでもそのために選択した行動は「自分」そのものだ。

それがきっとまたあなたのゆくみちを照らしてくれますように。

失うものなどなく、考えたこと行動したこと、それら全てが糧になる。

 

深呼吸。