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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

可能性に満ちるな

1年間くらい、いやそれよりずっと長い間でわかったことは「可能性に満ちるな」です。

 

あれもこれもできると思うな。

 

あの人にもその人にも好かれると思うな。

 

やると決まってることに可能性を見出せ。

 

その人と決まっている人に可能性を見出せ。

 

短い人生どうせなにもできゃしない。

 

ひとつでも見出したら近づける。

 

 

安楽死、ねぇ

死ぬかもしれないから、言っておきたいこと。|幡野広志|note(ノート) https://note.mu/hatanohiroshi/n/n36835ac59e11

 

前提としてこれを読んだ後に書いています。

これについて書きたいのではなく、これを読んだ後自分に照らし合わせたことを書いていきたいと思います。

 

私も友人たちをおそらく同じ病でなくしている。

 

彼らは最後まで闘っていた。何度も楽になろうとしてた。でも彼らの心の奥底でここで頑張ることがある種の支えてくれている人たちへの感謝を示す行動だったという信念があったのかもしれない。(し実際そう言うこともあった。)

 

もしかしたらとんでもない負担を知らずのうちに強いてたのかもしれない。

本人が望むのならそれをしてあげられるのが最善だとは思う。

本人が自分の意思だけでその決断をできるのか、もまた微妙な話だ。

 

あえてサバサバ書く。

自分の話です。

一切のコメントも受け付けません。

 

こういう時は自分の時なら

細かく、こういう状況になったら判断はこれ、と予め決めておかないと結局誰も判断できずになってしまうのではないかと思う。

 

もちろん混乱しているし、そもそもそんな整理がつくような状況じゃないかもしれない。

あえて経験から例えるけど、株と一緒で、先にもうどういう状態であればどんな判断をするかは決めた方がいいと思う。

その決断の論理性や倫理性や自分の感情と擦り合わせて、その判断自体ではなく、その判断の理由の確からしさだけを信じるのだ。

 

もっとこうすれば良かったなんてクソほど思い浮かぶだろうけど、でもそれ以上にこういう判断理由があったから…と思い直せることは結構その(決断した)人を助けてくれると思う。

 

 

それがどんな決断であれ、それが苦しさを伴う、悲しさを伴うものであれ、その決断と論理の確からしさを祈りつつ、周りは自分は不安や悲しさを受け止めるしかない。

人が生き死にを決めるのだ、簡単に決まるわけでもなく、悲しくないわけがない、当たり前だ。まずそれだけの(大きい)問題であることを意識して、どこかにウルトラC的な着地ができるとは思わないでやっていくしかない。

 

自分のことを思うと

苦しさはきっと想像を超えてしまうからいくら頑張ろうと思っても今日の今がきついことはきっと何よりも絶望的になることだと思うし、それに屈することは最初に例えば頑張ろうと決めた自分の判断が呪いになって作用してしまう可能性もあるので、なるべくなら頑張らず、受け入れて緩和だけを目指して安楽死に近いような着地が一番いいのかな…と自分の場合はそんな選択ができたらな…と現時点では思う。

現時点の話しかできない。

 

がんばれなさ

「がんばれなさ」も含めて責任持ってたたかう。

ほんと「がんばればできる」みたいなものは早く捨てたい。

 

がんばるなとは言わない、

がんばれとも言わない、

がんばればという仮定の話をするのは夢想して終わりがちという話。

崇高な理念と些細な行動

崇高な理念や理想とかで走らない。目に見えるものしか、感じることしか人は受信しない。動けば誰かが見る。理念を聞かれる。そこに理念なんかあってもなくても。行動に対してコミュニケーションは生まれる。理念からは生まれない。ジョブズiPhoneつくったから話聞いてもらえる。では作るべきは何か。