もはや苦しみたがっている。星野さんとマツコさんの対談を見ながら
先日、星野源さんとマツコ・デラックスさんが対談しているテレビ番組をたまたま見ることができた。
いまや、星野さんと同じように話せることができるのは
星野さんが憧れている方か、星野さんと同じレベルの方でないと話が成立していないように見える。
そこでマツコさんは適任というか、きっと同じレベルで物事を考えてくれる人だろうなという感覚はなんとなくあった。
簡単に言えば、孤独。誰にも期待すらしてないし、期待しない自分を受け入れているし、友達がいれば電話すると言うが多分しない。そのとおりだと思う。
こんなときに電話できる人がいればいいな、と思いながらやれないのは、友達がいないのではなく、それをやると良いというふうに(星野さんやマツコさんが)人間としてプログラムされていないからだと思う。それを「神様が孤独に耐えうる人だから(そうさせた)」、とマツコさんは表現されていた。
自身も、恐らくやさしさとかというか思慮深さというかについて同じようなことを思う。
多分、比較的優しくはあれると思うけど誰も同じ程度で私にリアクションやアクションしないだろうと思う、し期待していない。だから精一杯優しく、思慮深くありたいとは思うけど、誰もが返せなかったなと思う中で死ぬしかないと思っている。
話変わって、最近はひけらかすような幸せに耐えられない。
正確に言えばなぜ幸せを表現するのかがよくわからない。
幸せすらも自分で消化できないのだろうか。それって幸せと言えるのだろうか。
ー幼年を可能性の爆発だとすれば、晩年は選択肢を閉じてゆく爆縮ー(左ききのエレン)
みんな可能性を閉じていってるように思う。
コロナだからより強く思うのかもしれない。
結婚、育児、で可能性を子供に絞る。
いや、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。
当たり前なんだよな。
その中でどうポジションをとろうかな。
というところで星野さんやマツコさんの話は大変ありがたかったんだよな。
星野さんの言ってたような「自分の好きなものを世間の真ん中に持ってくる努力」でもいいし。
人のことなんやかんや言ってたってしょうがないから
そんなふうに自分のポジションをしっかり取ることなんだよね。
それは自分を守るためではなく、己を知りパフォーマンスを発揮するために。
可能性は収束していく。
何かを作り出すとき、足りなさばっかりを感じる。
まずこの足りなさをどうにかさせることなんだろうな。
もちろん自分という責任において、今やっていることは形にする。
真ん中にする努力もする。
時間を使うか、質をあげるか。勝負か。そうだな。
いつだってそうか。逆境の期待薄で出す一手が一番輝く可能性がある。
クオリティをあげろ、もっとも良くあれ。やることをやろう。最善であれ。
それに文句を垂れるな。自分がエネルギー注ぐ。それ以外にエネルギーは生まれない。
煮えてなんぼのおでんだよ。
憧れに進もう。憧れよう。
落合さんの言葉が思い出された。
ーポジションを取れ、批評家になるな、フェアに向き合え、手を動かせ、金を稼げ、画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分なりの価値を見出して愛でろ、あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ、明日と明後日で考える基準を変え続けろー