あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
この年末はいろいろな人に会おうといろいろ話をもちだし、いろいろな人と会いました。
思えば私は才能という言葉が嫌いでした。
才能というわけのわからないもので片付けられることが嫌いでした。
だから長距離走も走った。影で走り込んでたら速くなったのだもの。
短距離走はあまり好きではなかった。あんまり速くならないのだもの。
(思えばここで、才能を認めていることになっているような気がしなくともないですが。)
とにかく、才能だけで終わらない世界、努力や勉強によってどうにかなる世界が好きでした。
そういう世界に身をおくことが好きでした。
長距離走もギターも株式投資もそのような世界だと思っていました。
たらればさんを引用させていただきます。
蜜蜂と遠雷、ついに読むタイミングがやってきてしまったかもしれません。
「経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気、そして情熱。才能が足りないなら、そういうもので置き換えよう。もしも、いつか、どうしても置き換えられないものがあると気づいたら、そのときにあきらめればいいではないか。怖いけれど。自分の才能なさを認めるのは、きっととても怖いけれど。」
— たられば (@tarareba722) 2016年7月18日
このどうしても置き換えられないものに出会ってしまったような気がします。
自分が自分である以上ここは変えることができない、と思ってしまったのだから。
そこに行き着いた、のだから。
この経験をする前に、これを読んでいたとして、このように思えていたかどうかは怪しいものです。もし読んでいても、でも恩田陸さんはあきらめてない側の人間でしょうと思っただろうし、自分の才能のなさを認めずに開花させたじゃん、って思っていると思うのです。
でもきっと実際は、今思えば、今読めば、何かに可能性のなさを感じたからこそ、今やってることに全てを注ぐことができているのだと思います。
何かに可能性がなかったことを意識しないで、選んだものの可能性だけを一直線に信じてやってこられた人はすごいと思います。ラッキーだし幸せだと思います。何かに心血を注ぐ覚悟が早いうちにでき、それを伸ばす時間が充分にあること、それは心底うらやましいです。
才能という言葉の嫌いさは中学生頃から意識はしていました。
だから、努力すればなんとかなる精神があったのだし。
このことに気づいたのは衝撃的だったのですが
今まで努力をしてもどうにもならない、という事態に陥ったことがなかったのです。
幸か不幸か。
努力をすれば結果が出るものだと思っていたし、そういう世界で生きてきたつもりだし、選んでいる世界はそういう世界だと思っていたのです。
前に書いたように投資は自分にとってチャレンジングなものでした。それ自体全てが努力を否定する世界ではありませんが、そこに(短期売買をするやり方において)自分が超えられない自分を見つけてしまったのも事実です。はじめるときに読んだ「自分に合った投資法を見つけよう」の意味が今ではよくわかります。当時は「それぞれのやり方に自分を合わせればいいんだから、そんなのどうだっていいだろ」と思ってました。でも違いました。答えだけ言われても自分で確かめない限りは納得できない厄介な性格でした笑。自分に合わないことはできないのです、人間。
今まで、陸上競技も勉強も受験も踊りもギターもサークルづくりもやってきて、やればできるものだと思ってたのです。なんでもそつなくできる自分だったのです。なんでもできてたんです。それできっと人にもすごいねって言ってもらえていたんです。それは自分の自信にもなったし、何に挑戦しても「できるじゃん」ってことを増やすことが嬉しかったのです。
でも、それはきっと前にも言ったように「やってみた」レベルなんです。もちろんできることは素晴らしいとは思いますが、なんというか壁を感じるまで突き詰めてないのです。
努力をすればできる、という経験ばかりで、いくら努力しても超えられない世界、挫折を味わっていないのです。今まで。
だから可能性ばかりをいつも信じてしまっていたのだとも思います。可能性を信じることは悪いことではないですが、可能性に満たされることは何もできないのと同じくです。
経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気、そして情熱、そういう言葉を持ってしても自分が自分を超えられない世界が明確にあることを実感していなかったのです。
確かに私は箱根駅伝を諦めました。ただそれはケガをしたからだ、と他のもののせいにしたのだと思います。自分は精一杯やった、悪くない。と。他のもののせいにする余地があったのです。
今まで頑張ったら結果が出ていたのです。少なくとも自分が満足できるほどに。
(まぁそれを自己満と言うのかもしれません)
でも頑張っても結果がついてこないという経験をしました。
だからようやっと、自分はただの世界の一部である感じを痛感させられたのです。
価値が無いわけではない、けれどお前が全ての価値を背負っているわけでもない。
お前が出せる価値は限られている、だからこそ限られている価値がもっとも輝くところにいるべきなのだと。パズルのピースを埋めるように自分を配置していくのだと。
20歳くらいでそんなことに気づいているような方もいて、やっぱり遅いなぁと痛感せざるをえないのですが、才能という言葉にとらわれずに、とらわれないことにもとらわれずに、地に足の着けて、歩いて、走って、いこうと思います。
いい具合に歳をとると、諦めるというか開き直るというか、やるしかないからやるというか、どれほどの才能を前にしても「コツコツ準備する」が最強なんだと何度も気づかされるのでありました。それしかないし、それが出来るかどうかがメチャクチャ大きいと。段取りを組んで準備する。それで臨む、と。
— たられば (@tarareba722) 2017年10月13日
これは株式投資でも同じだ。とにかく準備したものが変化に対応できる。
そのものに対して否定しているんじゃなくて、わかった上での結果の出し方というかなというところで埋められない溝というか壁というかがある。
「結果が出ないのは努力が足りてないか、やり方が間違っているかだ」と言う言葉も何度も聞いた。たしかにそのとおりだと思う。努力を否定するわけじゃない、目的と手段を考えたとき、目的を達成する手段はいくつかあると思う。だから上にある届かないぶどうが酸っぱいとか僻むわけではない、ただジャンプしてそれを手にするという行為がどうしたって選べない自分がいたというか、だったら階段を地道に作ってそれを手にするしかないというか。努力の手段、在り方においても自分ができるかできないかがあるのだということを知った。(だからそれができるような手段で努力をするしかないのだ。そしてそれ、目的を達成する手段、そしてその努力の在り方は私にとって短期売買ではなかった、ということなのだと思う。)目的は経済的な自由を得ることだった。手段は短期売買が一番早いと思った。けど、その手段を自分でものにするには自分が自分である以上難しいと思った。目的は変わらない、手段は変わる。それは大きく言えば努力の範疇の中だろうけど、努力の在り方が存在することを初めて知った。自分も殺して、無感情になればいいと思ってた、でも結局自分を殺せはしないし、無感情になることができなかった。感情があるのが人間じゃんと今までさんざ言ってたこと、とってたスタンスを覆すことが、道理を目の前にしてもできなかった。
「継続は力なり」という言葉を教わった時に、なんとなくそれは十分条件だと思っていたのだけど、大人になって、どうやらそれは必要条件だということがわかってきた。才能とか環境とか前提条件とかはまず置いといて、「続ければ力になる」のではなく「続けないと力にならない」ということなんですね。
— たられば (@tarareba722) 2017年5月3日
長年編集者という仕事をやって、凡人が偉大な才能を持つ人達に「一緒に仕事をしたい」と思ってもらうたったひとつの方法は、「キチッとしていること」だとしみじみ学びました。頼まれたことはすぐやる。時間を守る。こまめに連絡を取る。守れない約束はしない。言葉遣いを丁寧に。これで全然違う。
— たられば (@tarareba722) 2013年12月5日
新人の頃、先輩編集者が新人作家さんに言っていた忘れ難い言葉があります。「子供の頃からずっと友達がたくさんいて、社交的で、遊び場もゲームもたくさん与えられた人間は、絵描きにも物書きにもなれない。才能にも技量にも理由がある。貴方のコンプレックスはその証拠なんだ」。なんだか泣けました。
— たられば (@tarareba722) 2014年8月8日
才能を毛嫌いすることでもなく、努力を盲信することでもない。
才能が目の前にあるのならそこにたどり着くまでの道を想像する。才能が「才能」だけで語られることはほとんどない。それに対しどう取り組みどう継続させたかの方がよっぽど大事で。
努力というものを過信せず、無理をすることでもなく、我慢をすることでもなく、必要なことをただキチッと準備する。
(ただ何が必要かわかるまでに時間がかかったり、没頭や経験が必要だったりすることがあることも難しいことだけど。)
自分が勝手に作った呪縛に囚われない。
逃げること環境を変えること誰かと相談することまたは少しの勇気を出すことで誰かの役に立つようになったり自分の役に立ったり愛せたり愛されたり。するのだ。
まとまらず、ぐちゃぐちゃ言いました。