handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

what I talk when I talk about laughter

僕は人と違うという感覚が好きだ。

逆に言えば、人と同じということがあまり好きではない。

なぜかと言えば、人と同じになることで自分が消えてしまうからだ。

小学校の僕は

まわりから優等生だとはやし立てられるのが嫌いだった。

俺だってみんなとなにも変わらないのに!!

つむじが2つあるからってハゲーって言われることもある。

(あくまでつむじが2つあるからだと思いたい(笑))

少々の葛藤のあと・・・・

そのときに現状を変えることをやめた。

ならばいっそのこと受け止めてやろう。そう考えた。

優等生なら優等生だと認めてやればいい。

ハゲならハゲと認めてしまえばいい。

悪口をいうやつの期待を裏切ることが、そいつの思惑を崩すことになる。

誰だって認めたくないだろう。自分が周りと違っているなんて。

特に小学校の時なんて。違ったらいじめられうる。(今の時代はわからないけど、少なくとも僕の時代は)

それでも、認めて受けてたっちゃえば、相手もそれ以上反撃してこない。

むしろ、逆手に取った行動は人の意表をつき、面白さへ昇華する。

多分、このころからだ。

人と一緒であることへ違和感を覚えたのは。

逆のことをしようと思い始めたのは。

オモシロイ考えを思いつこうとしだしたのは。

そして、人と一緒である必要なんかないと人に言いたくなったのは。

笑いという概念はなんだろうか。

僕が好きな言葉がある。

「笑いとは人の期待を裏切ることや」 明石家さんま

100人いて100人が同じ行動したら、それが普通になってしまう。

50人と50人に分かれたらどちらも普通だろう。

でも3人と97人に分かれたら、3人は異常だ。(と思われる)

だけど、その3人がいるからこそ面白くなるストーリーがある。

うどん屋で、みんな食べている中、鼻でうどんをすすっているおっさんがひとりいたら確実に面白い。

そういうことなんだよ。

だから、いつも人の期待を裏切っていたい。

それは、人を楽しくさせるということもわかっているし

それはつまり、君も人と違っていいんだよ。っていう僕なりのメッセージでもある。

自分を出したら、もっと面白くなるかもしれない。

もし人と違っても笑いによって救われるから。

そうやって僕は、昔の僕を助けたい。

それが根本なんだろう。

高校では、周りの環境があまり好きではなくて、でも合わせることの不必要性を僕は感じていたから、一人になることが多くて、きつかった。

きつくても、ぬるま湯につかって自分を消してしまうよりよっぽどマシだった。

大学でその想いは加速した。

自己表現がしたくなった。自分を出したいと思った。

好きなものを好きと言いたいと思った。

隠すことはもうやめた。

叫びたいときに叫びたいと思った。

僕が踊ってきたダンスにはその土壌があった。

自分を魅せる機会があるのだ。

俺が踊るその一端にも、「君も人と違っても自己表現を精一杯してごらんさー」という想いが篭ってるのがわかるかな。(わからんだろうけど)

だから、

僕は君は君の道へ進んでほしいのだ。

僕が楽しそうに踊っているように。

誰にも君の道は踏ませるな。

今回は踊りだけど、社会人になったら次は何で伝えられるかなぁ。

「笑いとは人の期待を裏切ることや」 明石家さんま