「がんばれなさ」も含めて責任持ってたたかう。
ほんと「がんばればできる」みたいなものは早く捨てたい。
がんばるなとは言わない、
がんばれとも言わない、
がんばればという仮定の話をするのは夢想して終わりがちという話。
「がんばれなさ」も含めて責任持ってたたかう。
ほんと「がんばればできる」みたいなものは早く捨てたい。
がんばるなとは言わない、
がんばれとも言わない、
がんばればという仮定の話をするのは夢想して終わりがちという話。
日本はもういろんなところで遅れているのかもしれないと思った。
住む国ではなく訪れるのに良い国なんじゃないかとか。
つらいな?
いろいろ考えなくてはな
スピード感とか言わない人間になりたい。
かいまみとは・・・
「となりの人の世界を覗いてみよう」がコンセプト。
普段、関わることのない人はどんな世界で何を考え、どんなふうに人生を送っているのか。今まで出会えなかった興味・関心と出会えます。
毎回5名ほどのスピーカーをお呼びして各20分ほどのプレゼンを行っています。ぜひとなりの人の世界を「かいまみ」していってください。
なにかちょっと違う世界を見てみたい方、転職、就職、将来をお考えの方もぜひ、お越しください!
かいまみ Vol.03 12/23(日)
場所:スペースAOM(神楽坂駅徒歩5分)
時間:14:00~17:00(アフターパーティ含む)
参加費:1500円(軽食・ドリンク込み)
※聴講のみ1000円
参加希望の方は、facebookイベントページから参加ボタンを押してください!かいまみvol.03を。もしくは私にご連絡ください。(当日いきなり来ちゃっても良いです)
取り急ぎ連絡です。
ぜひに!
人を泣かせた数よりちょっとだけ人を笑わせた数を多く。
わがままを言った数よりちょっとだけ我慢したこと数を多く。
そうしたら見たか人生、俺の勝ちだって感じながら小さくガッツポーズをしながら多分死ぬ。
もし満足に食べられないとき、あるいはその時代、
満足に食べることが向上の方向性だし、それから言えば、栄養の良いもの、美味しいもの、A5ランクの肉などなど、そういう方向付けで上というか進む方向はわかることができる。
それは満足に食べられていない状態からするとわかりやすい方向なのだけど、
現在、この時代で、まぁ普通に食べるくらいであれば問題はないよ、という人が多くいる時代、じゃあ果たして毎日A5ランクの肉を食べるとか、高級フレンチを食べるとかそういうことにそこまで興味を持っている人って少なくなってきているような感覚がある。
なんというか足りないものをまぁ満足行くラインで満たされたらそれ以上先は、なんかそこまで求めているものじゃないんだよな〜って感覚に立ち入っているのではなかろうかと推測している。
お金だってそうかもしれない。
だから今の時代でも単純に、お金がほしい、出世したいみたいな欲を持ち続けている人は方向性がラクでいいと思う。その方法の難しさは別として、方向付けが難しくはない。
ってなったとき、もはや出世やお金を稼ぐことはもはや、趣味というか、選択肢のひとつにしかならないのではないかな〜、全員が共通して見る夢ではなくなってきているのかな〜と思った。(求めていないのだから年収が下がるのは当たり前ではある、と書きながら思った。年収何百万時代だと言われる前、おそらく今よりも求めていたのだから。)
ことを思うとさ、
じゃあ学生時代、勉強が例えば出世に置き換えられるとして、勉強のできるできないは「選択肢」なのか?と考えた。
誰しもに良い成績を求めるのは果たして正なのか?
選択肢なのか?
まぁ与えられるものとしては平等にあるべきだとは思うけど・・・。
もちろんいわゆる勉強ができなくても、ちがう才能があることもある。
(ただ、特に中高とかの勉強は勉強というよりも、攻略本があればだいたい攻略できるようなことをやるだけな感じがあるけど。。。。それすら勉強だと思って拒否反応がでるならそれはもう選択肢になりうるのかな。)
ただ、どこかにも書いてあったように、ただの選択肢となったからといって今までのスタンダードであった、出世とかお金とかに対して、別のもので満足とか才能を発揮しようと思うこと、それは簡単なようで一番むずかしいことなんだよね。
定義が0からだし、そのノウハウもない。
自分が何で幸せを感じられるのか確信もない。
だからみんなが見るような夢、正確に言えば見ても不思議じゃない夢を追ったほうが簡単ではあると思う。冒頭に言ったようにそれと、自分の夢とかやりたいことが重なっている人はそういう意味で幸せだと思う。
あるいは、騙しながらできちゃうこと。
んで、だませない人とか、自分を騙さなくていいんじゃん、とかって思い出す人が最近顕在化してきている。
で、それはマーケットとして小さくない。
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昨日、宇多田ヒカルさんのプロフェッショナル再放送を見た。
音楽が自分でコントロールできること、それがなかったら絶望しかなかった、と言っていた。
ここで言葉にはできそうにないが、つまり宇多田さんも、出世やお金を稼ぐとかそういう次元で生きていないのだと思った。
自分が本当に進みたい価値観を含めた方向性×そのスキル能力×時代、というものの波長が合わなければ、時代は多分つかめないだろう。
時代をつかもうだなんて思ってないけど、前者2つは見極めたいし、高めたい。
音楽はいい。持ち運べて、感情に訴えることができて、人と一緒に聴くこともできて、映像作品よりも手軽で、自分で完結できうることで。
最後にプロフェッショナルとはという質問があるのですが、あれは正解を、べき論をきいているわけでもなく、あなたがありたいものとか、大切にしていることとか、何に沿って生きてきたかと問うているわけで。あぁこの人の世界の見方や価値観がそこにあるんだなぁと思うだけになった。
そう思った時、自分の中で全ての人が並列に、フラットに、並んだのでありました。
あとはもう好きずきだから。
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ただの選択肢となりえた、それをまだ追うのか。
みんなが追っているから追うのか。
それはあなたの喜びにつながるのか。
なーんて考えないほうがラクなのはわかっちゃいますけど。考えたくなっちゃうんですよねー。
ふと思ったけど、なぜ就活とかあんな自己分析するんだろうね。
自己分析ってあんま必要ない気がしてきている。
なぜあんなに内に向かうのだろう。
向かう必要あるのか。
他人ならその人をよく見る必要はあるよ。
つまり面接官がこの人どういう人か見極めるため、他者分析は必要だよ。
でも見られる側の自分が自分のこと分析する必要あんまなくね。
面接に場においての質問に対する自分の考えの言語化は必要かもしれない。
それは「こいつなんも考えてないな」と思われないために
「コミュニケーションできないやつだな」と思われないために
でも自分が何が好きかとかどういう人間だとかって自己分析という内に向くことでわかることではないと思う。
好きかどうか、過去、それらを必死に言語化してただの言語の箱に入れて型にはめた自分が果たして本当に自分を捉えられているかと言えばそうではないし、
そうやってうんうん悩んで出した答えって結局自分が好きだと思うことからかけ離れていることも多いと思うんだよね。
それよりもなんだかよくわからないけどやっちゃってることとか、時間かけちゃうこととか、それがないとストレスになっちゃうこととか、の方が圧倒的に自分の好きや方向性や特性を表していると思う。
そしてそれらは言語化する必要がないと思う。というかすることによって感覚とズレるから。
じゃーどう選べばいいんですか、って思うかもしれないけど。
そりゃもうなんとなくやだな、とかなんとなくいいな、だけで判断すればいいと思う。
んで、それ以降はそこに入るための戦略を考える。そんな感じだと思う。そのための言語化ならすべきだし、そのために型にはまるならはまるべきだと思う。
でもそのなんとなくいいな、やだな、を言語化しようとすると本当は嫌な部分だったり、本当は良い部分に気付かず、後からそれがストレスになったりする、と思った。無自覚だけど必要不可欠な要素を見逃し、実はストレス感じてても選んだ仕事は好きなはず!と自分を洗脳しなきゃいけない事態になっちゃったりすることもあるだろう。
だからそういう意味で自己分析はいらない。
過去なんか照らさなくて良い。
今それが楽しそうだったらやればいいし
楽しくなさそうだったらやんなきゃいい。
っていうと今だけ楽しきゃいいのかって言い出す人もいると思うのだけど、もはやこの「楽しそう」の時点で「何を楽しいと思うか」みたいな主観の価値観が入りまくるのであんまり心配いらないと思う。
将来の安定がなきゃ楽しめない人はそもそも先の見通しが見えて安定している環境じゃなきゃダメだったりするし。
だから何をするかは今に重きを置いて考えればいいと思う。
それがどうやってできるかはまた別のお話。
これらを全て自己分析で成り立たせようとすることが間違い。
っぽい。
と思う。