handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

存在と飲み込むこと。

今まで繋がってきた人と

その繋がりを絶つことは

その人にとって私が死ぬのと同じなのだろうか。

私と会話もしない、私の存在を確認しない、

その時、私が生きているのと死んでいるのにどれだけの違いがあるのでしょう。

Twitterで人生とか世界を表すのにはあまりに短絡的だけど

私がいなくても世界が廻ることが実によくわかる。

私がいない世界というものを観てる気分になる。

誰ともつながらないリアルも同じく。

その人の中に私が死んでいるという事実があるかないかだけの差でしかないんじゃなかろうか。

私はその差をどれだけの価値にできてるんでしょうか。

生きているうちに光り輝いていた人はその反動に死んだときに周りの人に深い影を落とす。

とは言ったものだけど。

(どういう生き様が良いんだろうか。)

自分が存在していること、存在していないこと、事実だけの違いか?

今この瞬間実はあの人が亡くなってたと聞いたとき、聞くまではその差すら感じられないし、つながりがなかったら認識した後ですら世界の差を感じないだろう。

別に静かに死にたいけど、なんとなくふとしたときに差を感じて欲しいかなぁ。

光り輝く生き様じゃなく、誰かに影を落とすような死に方じゃなく、(生きていてくれた世界は)なんか良かったよね、(いなくなった世界は)なんか寂しくなっちゃうよね、なんかつまんなくなっちゃうねって一筋涙を流してもらえるようないなくなり方が今の望み。

その世界の差。

ちょっとは意識してもらえるようにこの人生目一杯かけたい。それぐらいの差を生みたい。

ヒトコト

できる人の言い回し、っとかって本を読むよりも、あ、これ良く聞くなぁとか、気持ちの良かった言葉を、試して使ってみること。そうやってフレーズを覚えて自分のものになるんだから。

生の現場で血や肉にしたものじゃないと自分の言葉として出てこない気がする。

留学したときもそうだったけどビジネス現場でも一緒で。あ、こう言うのか、ネイティブの言い回しってこうなんだ、あ、こうやって聞かれるんだ、とかって言うのを自分で経験して初めて自分の言葉になる。

最近、よく使う便利なビジネス言葉は、恐れ入ります、と確認、って言葉。(笑)

よくよく周りを見渡して耳を澄ましてみることをオススメします。