幅
昔の記事を読んでいて思った。
そこにはこう書いてあった。
「何者かになるというよりも、何者かになれる自分でいたかった」と。
前記事で魚と水槽の話をしたけれど何かそれと繋がった感じがした。つまり、今までずっと可能性を追っていたのだと思う。水槽の広さを確かめるとともに水槽の幅を広げようとしていたのだと思う。思えば大学入ってからずっと。国際交流したりお祭りしたりバイトしたり海外行ったりダンスしたり作ったりストンプしたり恋したり働いたりギター弾いたりエレキ弾いたり国内旅行したりベトナム行ったりオークションに出品したりスペイン語したり阿波踊りしたり投資したり失敗展したりかいまみしたり。思えばいろいろやったな笑。
思えば高校から大学に入るとき、進路というか将来がわからなさすぎてとりあえず今まで関わってきた部活なら興味あるかもと思ってそのトップである早稲田を目指した。でもその中で早稲田の雰囲気が好きだった。誰しもを認め誰しもが認められるような、過去なんて関係ない何やってもいいんだよと言われているような。
それは部活というある種の同調圧力からの自身の解放だったのかもしれない。何やってもいいのならなんでもやってみようと。早稲田に入る前から胸が踊っていたのを覚えている。
だとすると働いてみることもその一部であったような気がする。それで生きていくなんて覚悟がなくて、もちろん恋だってそうだ、この人と生きていくって覚悟がなくて、○○してみたどまり。働いてみた、恋をしてみた。(というと語弊がありそうだけど、恋は勝手に落ちるものなんですけど、感覚でいうと覚悟がなく他の可能性を常に探っている感じといえばいいのかな)
これじゃないなにか、ここじゃないどこかがあるんじゃないかとずっとその道の幅、自分が生きていく世界の水槽の幅を広げようとしてた。振り返ればこの10年間だ。(もっと小学生とか中学生までに世界のこと社会のこと知れてたら本当に良かったのになぁと思う。そこにアプローチするのが大分遅くなってしまったな。)
よく私が思う、それなりに幸せな人たちってその幅とか正しさというよりもその世界で生きていくことだけ考えるって視野がせまいなぁとか思ってたのだけど、まぁそれはそうだとは思うけど、ともかく何で生きていくかってものは決まっていたのよね。それが大企業にしがみついて生きていくという心持ちでも、これだけに関わることは“決まっている“(※)という心持ちでも、みんながそうしているからそう生きていこうとしてる人でも。とにかく幅を広げること、知ることではなくその道を進むことに決めていたのだと思った。もちろんみんなそれは意識的か無意識的かはわからない。もし意識的にそういう選択をされているなら、私はそういう一般よりもより吟味をしたい対象が多かったのかもしれない、長くかかったのかもしれない。普通はここまで選択肢を見て回らなくても選べるし選ぶことに疑問を感じないのかもしれない。一般論にはできないし私が多いのか少ないのかもわからないけれど。まぁ無意識的だと40歳とか定年過ぎてからとか変なことチャレンジしそうだけど…笑。
※……なんというか、”決まってる”こと以外、”決め”なくていいんだよ。細かく言うと難しいんだけど、決めたことは大体”決めたこと”に縛られるから。決まってることだけ固く信じればいい。決めたことに縛られず、決めたことに負い目を感じないで。変えていい。変えていい!(自身のツイートより)
そう言われてみれば、投資をやっているとき今までで1番できるかできないか、生きるか死ぬかのチャレンジだなと思ったし、このレベルのチャレンジはもうすることはないだろう(もう勘弁してけろ)って思った。そして人にそう話してた。そして投資のチャレンジが自分の中でひと段落したあと、次の(全く知らない世界への)チャレンジは思い浮かんでいない。(え、どんなのあります?笑)
なんというかそういうことを経て、今働くとか職種はどうだとかに考えが向かっているのは、いろんな選択肢をやっぱり見てきた末に出てきた答え(のようなもの)だと思う。
選ぶ前に全ての選択肢を吟味する、人生でそんなことできないんですけど、それに近しいことをやろうとしたんだよね。でもほんともやもやを抱えて30、40過ぎて人生こんなもんか、ここじゃないところがいいなって思いながら過ごす人生よりも100倍良いと思うけど。まぁ”結果的に”どうなるかはわからないけどさ。(いつか力がついて別の何かがもっとできるようになってるかもしれない。)なんていうかやっぱり当時の自分の最善を選択し続けたし(もっと全てを早い時期にできていたらとは思うけどおそらくこれが最速だったし)、できうる限り頭に浮かんだものは行動に移してきたつもりだ。だからなんだって結果は運、でも行動は選択。であり、そこに私がいたのだと思う。
だからこそ幅がわかっちゃったんだよな。側から見れば無謀なチャレンジ、馬鹿みたい、だけどもうほんとに全部潰した笑。カネもそうだしヒトもそうだろう失くしたものもあるけれど大切なものが何かもわかった気がするし、ずっと疑問だった「なんのために生まれて何をして喜ぶ、わからないまま終わる、そんなのはいやだ」って歌詞に恐れないで向かっていけるような心持ちである。
「まあね、でも人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。あたしは、よかったわ。」(キッチン/吉本ばなな)
多分、あたしもよかったのだと思う。なんども言うけど結果はわからないけどね。
解決可能に思えるちょっとの課題を(できれば人と)解決すること(キャリア的に言えばその解決方法が広告的手段、見方を変えること、考えが変わること、気づくこと、知ること、によってというところを魅力に感じている。あ、広告手段的なよさこいとかできないかな(独り言))。単純に遠くに行くこと(できれば人と)。それが私の1年の数え方だと思う。もちろん大切な人ができたら優先順位は変わるかもしれない。その人と過ごすことが無上の喜びになるかもしれない。(それはそれでいいでしょ笑。)
なぜこれがずっと心に引っかかってたのかも今ではわかるね。
夢に一途なのもすばらしい。が、多岐にわたるのもすばらしい。 - 最果タヒ.blog
長いな10年。帰納法的だ。帰納法的証明はあらゆる事例が必要だった。でしょ?笑。