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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

価値との葛藤、会うだけの尊さ


平井 堅 『ノンフィクション』MUSIC VIDEO (Short Ver.)

 

きちんと歌詞を聞いたらなんて壮絶な死の淵にたった曲なんでしょう。

 

わたしもいつかきちんとここ1年と数ヶ月の出来事きちんと書きたいと思っている。

 

 

今日はただこの曲を聞いて思うことを。

 

わたしはこの数ヶ月ずっとずっとずっとずっと何かと追い求めてきた。

求めるものが手に入らなかったとき(追い求めている状態なのだから手には入っていないのだ)、手に入れていない今の状態であるとき、

 

わたしの価値はどこにあるんだろうとずっとずっと恐怖だった、し今も恐怖だ。

何かに挑戦すること自体は僕自身尊いと思う、もし自分の知ってる誰かが挑戦してたとすれば、ファイティングポーズを取り続けていることを知れば、それだけで僕はそいつを尊敬するだろう。会って話がしてみたいとも思うだろう。

 

でも、自分がその本人だったとして、本人からすれば挑戦だけしてたって、それで何かを得たり、結果を残したり、していない人間が話せる言葉なんてないよなぁと思ってしまう。要するに自分の価値などないと思うのだ。実際に今現在で言えばお金だってあるわけではないし、人に奢ってあげることもできないし、できたらお金がかからないほうで、なんて言えるだろうか。言えたとして、そんなやつが話す話が果たして人の、あなたの役に立つだろうか、自分には役に立つとは思えなかった。あるいは自分のプライドが高いと言うのかもしれない。もしかしたらそうかもしれない、プライド云々考えている時間も、自分が無価値だなんだと考えてる時間さえも邪魔で、ただファイティングポーズを取って戦場に集中したかったのだといえば聞こえはいいかもしれない。

だからいろんな人への話す機会を臆病にも掴むことができなかった。多分いろんな人へ不義理を働いた。申し訳ないと切に思っている。これらはもう少し戦場が落ち着いたらきちんと書きたいと思うし、できたらもしよかったらまた話せる機会を作らさせていただけたらと思っている。

 

 

ともかく、結果が出せるようになるまで自分がこの世において無価値だなぁと思わされるのだ、何度も何度も何度も何度も何度も。人にあわせる顔がないのだ。

 

きっと悩んでる人ってそうじゃないかなぁと思う。

自分の無価値さにほとほと呆れるんだよね。いなくなればいいとか、(なぜかは知らないけど)切腹するイメージは何度も頭を過ぎった。

 

だからこそ、この曲を聴いて、平井堅さんの想いを聞いて、ただただ会いたいという、何も飾らなくていい、化粧しなくていい、ディナーじゃなくていい、アルコールがなくていい、ただただそこに居てくれれば、という意味のただただ会いたいだけ、という言葉が「そうだよなぁ・・・」と思わされる。そういう人がいてくれたらどれだけ救われるだろうと思わされるし、自分がそういう人でありたいとも思う。

自分もこんな感じで通ってきた道だし今も通ってる道だからその道の困難さと歩きづらさはよくわかるし、わがままなんだけど、相手に何も負担をかけようとしない「会いたいだけ」がどれだけの優しさを持ち、どれだけの光となるかということは想像に難くない。

 

平井堅さんが「(自殺を選んだ友人に対して)支え合っていると、思い上がっていた」とおっしゃったけれど、本当にどれだけ死の淵に立っているかは本人にしかわからないんだよね。

 

僕もあなたの辛さがわかる、なんて簡単には言えないけれど

僕も今ファイティングポーズを取っている。いつか話せる日がきっとくる。絶対来る。

 

ただただ会おうってだけでいいんです。そういう存在がいてくれたら。

または自分が誰かにただただ会おうとすれば。(無価値だと思う自分だと難しいんだけどね・・・。それでも大丈夫!って言ってくれる人がいてくれたらいいけど、確かめようがほとんどないでしょ。)

 

でもだからちょっと危ないんだけど、勝ってさっぱりした顔で会いに行きたいんだよなぁ。負けて顔面腫れまくりのボコボコの顔で話したくないんだよ。話すことがないんだよ。

 

話は簡単、だからリングで勝てばいい。どこまでできるか。

 

そういう葛藤。