handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

人間はなんだかんだ人間が好きな話。

人間はなんだかんだ人間が好きだと思う。

私は今のところ人間が生きることの本質はコミュニケーションだと思っている。

 

人間の生活はコミュニケーションによって支えられている。

毎日顔を合わせる人、家族、友人、仕事の人、コミュニケーションするからこそ満足を得られている部分もあるだろう。(それ故に苦しんでいる方もいるかもしれない)

 

じゃあ、1人が好きな人は、引きこもりは、動物好きは「コミュニケーションしてない」かといえば、そんなことは無いと思う。

着ている服、住んでいる家、歩く道、あたたかい料理、洗濯機が回ること、看板があること、インターネットに繋がること、飛行機を手配すること、犬が喜んで飛んで来ること、ネコが擦り寄ること、どれもコミュニケーションだと思っている。人が1人だけで生きることはほぼありえない。

 


祝!九州 九州新幹線全線開CM180秒

 

このCMを久しぶりに見て、人のチカラの偉大さを感じた。

なんというか、人がポジティブな感情で集まり、表現されることってこうも心を動かすものなのだ。

 

(CMなんていうものは、コミュニケーションの代表格かもしれないね。)

 

コミュニケーションをするひとつの要素に「手間を感じる」ということがあると思う。

 

このCMだって僕が感じるのは大いなる"手間"だ。

まず、沿線に出てくるのに手間がかかる。手をふるのも手間がかかる。

ましてや、横断幕を用意するのも手間がかかる。歩道橋に並ぶのも手間がかかる。

新幹線が通るまで待ってるのも手間だ。そこで一芸を披露するのも手間だ。

それを1本通しでカメラを回し続けるのも手間だ。

あるいは誰かはそれを「凝っている」と表現するのかもしれない。

 

その手間ひとつひとつを頭や心のどこかで感じられたとき、すでにコミュニケーションは成り立っている。別にコミュニケーションは毎日顔を合わせなくても、一言も喋らずとも成立すると思う理由だ。

 

その手間が想像を絶し、それでもそれを超えて何かを成そうとするとき、それを超えて何かが花開く瞬間、(涙が流れることもある)それはとても美しいものだと思う。思ってしまう。スポーツ選手のそれも、受験生のそれだって変わらない。

幾何学的に綺麗だとか、デザイン的に、美的センスが、美学が、というのではなく、人のもつほんとのパワーが満ち溢れているように感じられる。

 

それを美しいと思うのは、自分が人間だからだと思う。

人間(私)はなんだかんだ人間が好きなのだと思う。