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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

個性とは「組み合わせ」ではないかと思う話。

先の、カンブリア宮殿(ブロンコビリー)を見ながら、ぴょーん、とタイトルの考えが浮かびました。

ブロンコビリーって愛知県地盤のステーキ&ハンバーグ屋さん。

肉を安く仕入れるためにスジの処理にちょっと手間かかる肉(でもおいしい)、魚沼産コシヒカリ(通常の業務用米の2倍の価格)、焼き加減が難しい備長炭での調理、お店のファサードの雰囲気づくり、アメリカへの視察研修など、取り上げられていたのですが。

社長のインタビューが印象的で
「おいしいお米、ひとつだとすぐに真似される、でもそういうのを、3つ、4つと組み合わせていくと誰も真似ができなくなる」と。

なんだか、世の中一点突破、革新的な技術や、才能が、もてはやされる昨今ですが、なるほど組み合わせ、というのは大変面白いな。と。

真似できないってことは、つまるところそれって個性だよね、と思ったのでした。


そこで思い出したのが、ユニクロ社長の柳井さんの言葉。
ユニクロの画一的で大量生産的な服が溢れて、個性がなくなっちゃうのでは?という質問に対して、
「個性は服にあるのではなくて、着る人にある」といっていました。

そのことがなんともまぁうまくこのタイミングで整理できました。


つまるところ、ユニクロの服がたとえ無個性だったとしても、それと一緒に何を組み合わせるかという感覚はひとそれぞれであって、そこにあらわれているのが個性なのだと。

仮にユニクロだけの服を着たとしても、(裸にTシャツ1枚というわけにはいかないのだし)組み合わせを考えると無数にそのユーザーの個性が現れるんですよね。

音楽だってドレミファソラシド(もっと細かく言えば無数にあるような気もしますが)、その単音ではなくて、メロディという組み合わせで成り立っている。


もいっこいえば、それをいうなら、文字っていうのも無個性だけども、ひらがな五十音の組み合わせを考えると、独特な言い回しや、方言だってあるし、同じ出来事を表そうとするとき、人と違う表現になる。
それは、なにかと、文章のどこかに絶対あなたが現れてるよ、とかそういう風に言われてきたのだろうけど、

つまるところ、文字の組み合わせがあなたであり、それがあなたの個性なのだということなのだと思う。

個性は、奇抜なTシャツ1枚では決まらないのだ。


そう思うと、個性がないとかで悩んだりするというのはなんとも不思議なことのように思える。特に就活だってそうだ。自分がどんなやつなのか「一言で」言い表せなければ相手に伝わらない。

わかりやすさを求める。それがどうしようもなく人間だからしょうがないんですけど。

個性は、「前向きだ」とか「明るい」とか「コミュケーションが苦手」とか「読書が好き」とか「寝るのが好き」とか「踊るのが好き」とか、そう単一なことだけに現れているんじゃなくて、「寝るのが好き、だけどゲームだけは寝なくて大丈夫」とか「踊るの好き、読書も同じくらい好き」とか、なんかそういうところに人というものが現れてくるのではないかなぁと思うのです。

組み合わせ。
その組み合わせはきっとその人にしか現れない。


わかりやすくはないだろうけど、人ってそもそもわかりやすいものだっけか?


音楽って一言で表せるんだっけか?


組み合わせこそ個性じゃないかなぁと思った次第。

時代が個性を求めているかどうかはわからないけれど、落ち着いて、染み渡るような感覚も大事にしたい、わかりにくさ、である。