ヒト、コト、トキ。の時代になってきた。
わたくし、中学校の社会の時間に、資本主義の基本は
「ヒト、モノ、カネ」だと教わりました。
(これ誰が入ったんでしょう?フォード?・・・(調べる)・・・テイラーみたいです。何かと工場の生産性やらを科学的に管理した人だったかな。)
と、教わってきたんですけど、これって今もそうかな?と思ってまして
まぁ確かに8割方はこの理論・論理で通用するかもしれません。
でも、なんとなく肌で感じるのは、近頃の資本はヒト、モノ、カネではなく
ヒト、コト、トキ
なのではないかと。
ヒトは変わらず、大事な資本です、ヒトがいなくては進むものも進みません。
ただここで言うヒトとは、単なる数のヒトではなく、血が通った、そして自分と合うヒト、なのではないかと思います。
コトは、言われて久しいですが、もうモノの時代というわけではなくなり、持ってれば持ってるだけ良いものではなく、ある出来事に対する捉え方、コトの視点が重要なのではないかと。ひとつの物事にどんなコトを、モノの見方を、経験の捉え方をしてもらうか、言うならば考え方ひとつ、アイデアひとつの方が何百のモノにも勝るのではないかと。それはどんなに良いモノよりも、面白い経験、のほうがヒトにとって魅力的で、ヒトが動く原動力になりうるのではないかと思います。
トキは、実際何をやるにも結構時間がかかるものです。昔はカネがあれば、いろいろなモノが動いたかもしれません。今やカネで動くヒトやモノの価値よりも、カネで動かないモノの価値の方が高いのではないでしょうか。それは時間のかかるもの、社会的資本(ソーシャルキャピタル)とも呼ばれるような近所との人付き合いだったり、学生時代の友だちだったり、一緒に何かを過ごしたことかもしれません。そして何より、若さかもしれません。(もちろん全てのヒトにとって、今日が人生史上最高に若い日でありますので、一刻もはやく何かに取り組むのもとても良いことです。)
そんなことをぼんやり考えました。
ていうか、つまりヒト・モノ・カネじゃなくても(それが無くても)
ヒト・コト・トキが充実してたらかなり楽しい人生送れるよね、ってことです。
人生の尺度が変わりつつあるのではないかと思うのです。
だからさ、
社会人になったら合わないヒトとも嫌な顔せずに接しなきゃいけないとか
つらいことがあるのが人生だとか仕事だとか
仕事はプライベートよりも優先されるだとか
お金を持ってなきゃ飢えるだとか
一回そういうのは全て幻想なのではないかと思ってみることもアリなのではないかと。
だいたいそういうのを持ち出すのは、もうインターネットのクリック数を稼ぐ目的だったり、賛否両論のトピックを持ち上げて、どっちも煽ることでPV数を稼ぐだなど、もう単なる手段でしかないように思えます。本当の主張なんてどうでもいいのです。
なぜ、優秀な人材が3ヶ月で辞める? といった記事があっても
とか、じゃあ辞めさせればいいじゃん、としか思えません。
意識高い系の新入社員が~とか、いう記事も知ったこっちゃありません。
若者よ辞めるには早過ぎる~とか、いう主張も誰の何を思って言ってるんでしょうか。
そんなことを言う自分に酔っているのでしょうか。
(いや、ヒトの問題に帰結させて、社会や仕組みの話をしないから発展性がなく、辟易するのかもしれません。)
脱線してしまいました。
と、私はなんとなく、ヒト・モノ・カネからのシフトを感じており
(でもそもそも経済学にソーシャルキャピタルなる概念がある時点でそれはだいぶ昔から感じている方も大勢いらっしゃるかもしれませんね)
もう、幸せの尺度も定義しなおさなくてはならないような気がしています。
いやさ、極論、楽しい人たちとさ、面白いことやって、愉快な時間を過ごせばいいじゃないですか笑。その瞬間にお金って関係有るかな?
インターネットが発展して、自分が好きかどうか、できるかは置いておいて、
カネは例えば(コトの面白さによって)クラウドファンディングで集められるし、今までのカタチにとらわれない何か自分のできることに対価をもらうことが容易になってきた。
そうすると、市場がインターネットにとってかわった世の中では、貨幣の役割ってちょっとずつ減っていくのではないでしょうか。労力(ヒトやコトやトキ)が対価として認識されるようになるから。ていうか、価値が分かれるんですねきっと、ある人には500円のものがある人には5000円になるとかね。
ヒト、コト、トキの時代になってきたと思う。