handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

今日の出来事の延長線上

ふと思ったんだけど


今日の出来事、物事の延長線上に自分の幸せって果たして存在している、もしくは存在していそう、なんでしょうか。


と考えたら、なんとなくNOの方が多くを占める。

いつか、なにか、どこかで、をずっと言い続けてさ。
いつか、なにか、どこか、には今日ココ、も含まれていること、全然意識してないじゃない。


今日の、いや最近の出来事が、自分の思い描く(思い描けなくても幸せを感じる)在り方に通じていなかったら、それってそれで本当にいいのかしら?


いつかきっとなにかの役に立つ。そんなことを言い続けて、我慢して。そのいつかなにかは私の中にあるのかい。


大手旅行代理店を辞めた先輩が言ってた。「このままじゃあ、俺は困ってる人(難民)を前にしても、(今までやってきたキャリアである)飛行機の手配しかできないじゃないか、それを続けることに意味はあるか?」って。

やってることがスキルになるんだから、やりたいことに少しでも関係してることをやらなくちゃ、その人の思い描く、いつか、どこか、なにか、はやってこない、やってこない。おそらくずっとやってこない。

ガンジーも言ってた。
幸せのために活動をするのであれば、その過程も幸せでなくてはならない。と。


なにかのために、今を生きてるのか。
"なにか"の"ため"に生きてるのか。



私は思いました。
facebookに上がる旅行の写真写真をみて

旅行に行くというのは、綺麗な景色を見たり、奇異な体験をしたり、上手い写真を撮ることが全てではなくて。

言葉にするのも大したことのない、話にするのも面倒くさい、写真になんか撮ろうとも思わなかった、それらの体験の中に、旅行に行ったっていう経験が詰め込まれているような気がしました。
例えば風の様子や匂い、目線、時の流れ、そういうもの。

エピソードにすれば伝えやすいんだろうけど、エピソードにもならない、86400秒の中にたくさん詰め込まれているような気がしています。








86400秒、今この瞬間に、人に話しても首を傾げられるような些細なことを感じて、幸せの延長線上に立ったイメージをして、今いる位置を決める。






このまま歩いて行ったら私は幸せになるか?


幸せになれるかどうかなんてきっとわからない。そもそも幸せのために生きてるかどうかだってわからない。






でもま、いいと思った方向があるならば、悪いって方向も感じられるじゃない。


自分の人生に意識的になることなのよ。


株も一緒なのよ。笑


なんでその株を買ったか。なんとなくだったら反省のしようがないもーん。





危ぶめば道はなし。
いけばわかるさ!!!