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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

歌うように、踊るように、もしくは楽器を奏でるように。

結果にこだわる人がいる。

結果が全て。結果が出なきゃなんの意味もない。
 
 
プロセスにこだわる人がいる。
結果はどうであれ、プロセスが大事。
 
 
どちらかに偏ることももちろんおかしい事だと思う。いや、どちらかというと前者気味の世の中であるように思うし、私も多分そうやって生きてきたし、それがかっこいいと思う価値観で生きてきたように思う。
 
 
でも、それって本当だろうか。
と思い始めている。
 
 
結果が出なきゃ意味がないかな。そもそもその結果とはなんぞや?と。
 
 
と考えてたら、そういえば、歌とか音楽とか踊りに結果もプロセスもあるんだっけ?と思った。
ステップを踏む時、そこにプロセスはあるか、そこに結果はあるか。
 
僕は僕がただ楽しいからステップを踏み、ステップを踏むことが楽しいからそれが成り立ってるように思う。
 
 
別に1曲踊ることが結果じゃない。踊り終わって爽快感を得ることが結果じゃない。結果ではなく目的といってもいいかもしれない。
 
結果が全てではなく、全ては結果なのだ。(という一節をクビキリサイクル(小説)で読んだ)
ステップを踏み楽しんだ、という結果なのだと思う。
 
そして、私は今まで楽しいように生きてきたつもりだ。もっとも何にも縛られない大学時代は、目的と結果を求めたわけではなく、楽しいステップを踏み続けたことが大学時代の結果だっただけだ。
 
もちろん無意味に楽しいステップというものはあまり存在しないかもしれない。例えば、ただただ踊るよりも「早稲田祭があるから」とか目標、目的、結果、の想定があったほうがやりがいがあるかもしれない。
 
でも多分それらは、プロセスを上回らない。逆説的でおかしいけど、それらはプロセスを楽しくさせるための手段であって、目的じゃない。
あるいは、僕にとっては。
 
つまり、プロセスと結果は同時に消費されるのだ。
いや、されるものに僕は魅力を感じるのだ多分。
 
売上目標は手段であって目的ではない。
そのプロセスが楽しい物でなければそんなの意味が無い。
そのプロセスを楽しませる目的でなければ意味が無い。
 
結果というのは、カレーでいうところの福神漬けみたいなもんかしら笑。
 
だから、もう、言ってしまえば
私がその仕事をすることによる結果ってもう別にどうでもいいやっていう気が生まれてきていて。それがどうであれ(もちろん良いものであればベストだけど)、プロセスやその過程が楽しめるものでないと私は楽しめないのだと思う。
 
 
つまり、例えば、途上国の発展に寄与したいという思いからではなくて、
途上国に行ってみたらなんか面白そうじゃん、って理由で私は動かされ、それによってもしかしたら途上国が発展したらラッキーだね、って具合だ。
もちろん、発展させよう~!って意気込んでいったほうが「楽しい」だろう。
 
結果や目的はあんまり動機にならないんだなぁ~と最近感じました。
おそらく、普通や人に話すときは、まず望むべき「結果」「目的」があって、それを叶えるために、ある手段や仕事をするのだろうと思うのだけど。
 
なんか、そうじゃなくても、そのプロセス、環境、周り、自体に興味を持ち、面白がり、ゲームの要素的に「目的」があれば良いのではないかと思った。
 
 
歌うように、踊るように、もしくは楽器を奏でるように生きていこうと思った。