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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

自分にとって「必要な」人とは

今日ぼんやりと考えたのだけど、

おそらく多くの場合、「この人がいないと生きていけない」という人はいないんだろうと思う。

人は生命維持装置ではないし養われているわけでもないので物理的に生きていける(※稀に本当に生きていけない、後追い自殺もあるが)し、例えば誰かと別れた後(恋人関係を解消した後)意外とすぐに時間は経って、「なぁんだ大丈夫だったんじゃない」とか、何かを行動に移すことがおっくうで「行動しなくても、何かが変わるわけではないし、そのおっくうさを超える動機がなかったってことだよね」とか考えることで、その人や物事の必要性を確かめようとしたり、あるいは低めようとする。

もちろん、そんなことを言ったら、世の中に(例えば私にとって)必要な人はほぼいないということになってしまうし、必要な物事はなくなる。



(それは「惰性で生きる」のと何が違うのだろう)



しかし、ここで言いたいのはそういうことではない。「それが『不可欠』に必要なものではない」ということは「それが『本当に』不必要であること」を意味しない。
と私はぼんやり思った。

そしてこう思った。

その人が必要かどうかという問い(あるいはそれを考える力)よりも時間が進む力の方が強いだけなのだ。


いや、時間の力は何よりもあるかもしれない。追われるように生きたら、大切なものも何かわからずに一生を終える気がする。


「何もしなかった」ことを「何かをしようと思わなかった」ことにすり替えて生きたら、

つまり、「時間の力」を「意志の力」とごちゃ混ぜにしたら、立派な惰性の人生の出来上がり。


結局それは、「何もしない」ことを選んだんじゃない。
時間は遥かに早く進んでる。
自分にとって何が誰が必要か。

時間はとっくに限られてる。


そんなことをぼんやりと。