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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

賞は取るべくして取るやつが取る

フェイスブック上だとかで賑わしているこんな記事があります。

 
まずはちいと読んでみてください。
素敵な文章。
 
ぼくがいるよ。
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私もこれを最初に読んだ時、感動したのを覚えています。
 
 
でも、もっと面白かったのはこれからでした。すごく記憶に残っているので書きます。
 
 
 
あるテレビ番組で、この記事を取り上げ
「この子は一体何者なのか」みたいな取材をしていました。
 
 
普通の想像力では、読んだときに
あぁ、いい文章書くなー。子供なのにすごい!文才!、または文章表現ではなく、素晴らしい「出来事」だな、などという感想を持つかもしれません。
 
 
 
私もそこまででした。
でも大事なのは(?)、その先でした。
 
 
つまりなぜこの子はこんな文章を書けるのか。と。この子は一体何なのかと。
(そういう意味では記事を読んでそこに目をつけたディレクターさんも凄かった)
 
 
 
 
訪ねてみると、わかったのはこんなこと。
 
この子の親が国語の先生を自宅でやってた。
それ壁一枚隔てて聞いてたこの子の国語力がめっちゃ伸びた。
この前の年にも作文で賞(内閣総理大臣賞?)とってて、インタビューされてたお母さんもこの文読んで、「いや、去年の方がよく書けてましたね」とか言っちゃうレベル。
この子は小説家になるのが夢らしい。
至って素朴な子。
 
であるということ。
 
 
 
 
 
 
 
 
それがわかって、こう思っちゃったんです。
 
 
あぁ、賞や話題は努力の果てに取るべくして取るやつが取るんだな!!って。
 
 
私は恥ずかしながらこれを最初読んだときに、感覚として、(きっと相手が小学生だからという先入観もあったでしょう)ラッキーパンチの文章だ、という思い込みがあったのです。
 
僕らはきっとこの文章を読んで「いいね!」ひとつで終わって、コメントのひとつでもして、ちょっと人とは違う何者かになったような気になったりするんだけど、そーーーーーんなことは全然ちっちゃいなーーと思ったのでした。
 
 
良いとか感動した悪いとか腹が立つとか、その表面だけではなくて、その先の、ニュースの裏側に、または裏側に想像力を働かせることをしよう。
自分自身、最初にこの文章を読んで「いいね」で終わった自分を恥じました。なぜそこからなんでもいいから「この子はどういう子なんだろう」「こんな文章を書けるということはどんな環境にいるんだろう」と適当でもいいから想像しなかったのか。悔しいですね笑。
 
 
でも実際は全然違った。文才なんてものでもなかった(広義では文才というくくりかもしれませんが)、彼の環境と努力が多分に影響して、この文章ができあがったのだと。
 
 
最近思うんですけど、
違う世界に行く唯一の方法は、努力。とは言いたくないからもっと正確に言いますと、「それにきちんと時間を費や」すこと。
 
 
多分、5分とか10分とかのスキマ時間を、あぁもったいない!と思って使えるようになったらひとまず自分の世界は変わる気がするなぁ。
 
私ができてるかどうかはさておき笑。
 
 
さて、今日は早稲田祭です。
新しいものを手に入れる時は、今手に持っているものを離すのが先。
 
あえて大事なものを捨てることで、前に進むしかない。
 
消費ではなく生産の側に回るよ。