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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

ほぼ絶対にこない、いつか。

久しぶりにちゃんと書きますね。(?)

 

私、村上春樹さんが結構好きで、何が好きかと言われるとその言い回しだったり表現とか哲学的なところが好きなのですが。

 

その中でも、好きな一節が、ダンス・ダンス・ダンスの一節なのです。

それは後ほど紹介するとして。

 

先日後輩とご飯を食べた時、人のどういうところがだめか?という話になりまして。

こゆことがあったら人として付き合えないな・・・っていうラインはどこにあるんだろうと考えることがあったのです。

多分いろいろあとから考えれば出てくるのだろうけど、その時まず出てきたことが、誠実でない人とは難しいかな・・・という答えなのでした。

 

誠実って何かと言われたら、そりゃあもちろん程度にもよるんだけど

嘘をつかないとか、人を陥れないとか、あざ笑わないとか、きちんと謝るとか、筋を通すとか、そういうことだと思うんだけど。

 

そういうことって大事だなぁと思ったのです。あぁ、嘘だったのか・・・とか、それって筋通ってないよ、とか思えることがあると、その人は信用置けないなぁと思ってしまいます。(逆にこれは言いにくいよなぁ・・・って私でもわかることをきちんと言ってくれる人は、あぁこの人は大丈夫な人だと思えます。)

1回の行動でなんでそんなすべてわかるんだ、と思うこともあるけれど、どこかでこぼれたその対応と行動はいつか表面に現れるし、土壇場で絶対そういうところがでる。細かいところをごまかして生きてきたら、絶対大事なところもごまかして生きるようになる。だから、そこが想像できてしまったら、あぁこの人と付き合うのは難しいなぁと思う。

 

んで、別日にまた別の後輩と飲むことが会って

 

どんな死に方をしたいか、という議題になりまして。

私の理想の死に方は、隕石にピンポイントでぶつかって死ぬ、や暗殺されるとか(相手側の過失の)交通事故とか急に殺されることなのです。

なんでですか!って突っ込まれたのだけど、考えてみれば、そういう死に方のほうが「人生」って気がするんだよね。って答えておりました。人生って設計通りに進まないし、理不尽だし、不公平で、突然なのだ。そういうのが起こってくれたほうが、あぁ人生っぽい!って死ねそうだから。

 

人生は理不尽。そんなことをいっつも感じている。

理不尽さをあんまり受けたわけではないと思うのだけどね。そしていつだって急なのだ。

 

そしてもっと考えたら、あぁ、それって誠実とちと繋がるかもなと思えたのでした。

 

いつ死ぬかわからないのだ。私も、人も。

いつ死ぬかわからないのだから、会いたい人にはきちんと会いたいし。

自己都合よりも人を優先させて会いたい。ということをなんとなく思っている。

自分があるいは友達が恋人が死ぬ時に、あぁこれやっておけば良かった、これ言っておけばよかった、あそこに行っておけばよかったとか、そういう想いをできることなら1mmも残しておきたくないのだ。できるだけ後悔をしたくない。そういうことをしないくせにその人が亡くなった時に涙を流して"悲しくなった気"になることなんてしたくないのだ。だったらなんで生きてる時にもっと向き合わなかったんだって私が私に言うだろう。

 

という、そんな場面がダンス・ダンス・ダンスにもあったので下記に参照します。

 

「後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない」

 

中略

 

「僕の言い方はきつすぎるかもしれない。でも僕は他の人間にはともかく、君にだけはそういう下らない考え方をしてほしくないんだ。ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。君はディック・ノースに対して後悔する。そして後悔していると言う。本当にしているんだろうと思う。でももし僕がディック・ノースだったら、僕は君にそんな風に簡単に後悔なんかしてほしくない。口に出して『酷いことをした』なんて他人に言ってほしくないと思う。それは礼儀の問題であり、節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ」

 

中略

 

 「僕の言っていることは、大抵の人間にはまず理解されないだろうと思う。普通の大方の人は僕とはまた違った考えかたをしていると思うから。でも僕は自分の考え方がいちばん正しいと思ってる。具体的に噛み砕いて言うとこういうことになる。人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に」

 ここは本当に胸に残っている。ある種小説というのは、特に村上春樹さんの小説というのはこういう一節に出会うために読んでいるんじゃないかと思う。1ページ目から終わりまで物語をすべて楽しむのではなく、途中に胸を打つ表現だとか、考え方に出会うそこに感動する、それだけでいいような気がしてくる。(完全に理解できていないことの言い逃れかもしれない)

 

だから、私の母が手術しているときも待合室を離れたくはなかった。(結果親戚一同に連れられ昼ごはんを食べることになったけど・・・。)

し、何が起こるかわからない、人の旅立ちや見送りとかで妙に時間を気にしたりする。それで周りに、「いや大丈夫だから笑」って笑われたりする。

 

でもそういうときこそ結構思ってしまうのだ。こういう周りに流されて万が一仮に何かが起こった時、どんな思いになるだろうかって。私はこの人のせいにはできないんだぞって。その時に私はどれだけ後悔するんだろうかって。悔やんでも悔やみきれないほど、そして自分を責めるのではないかと。そういうことを想像すると怖いのだ。何かを"逃す"ことが。本当はしたかったことを、自分の責任においてすべきことを"できなかった"、"しないという選択をした"ことに対する恐怖。だったら、私の名において、自分の責任で後悔しないように努めるしかないと思うのだ。

 

 

それでも人生は、理不尽で、不公平で、突然だ。

何かに万全を期していても、それでも手からこぼれる砂のようにおそらく後悔する。

 

それでも後悔したくないのだ。

できることなら誠実に、人と付き合いたい。

 

 

だから、「いつか」とはあんまり言わない。いつかなんて一生来ないのだ。

いつか会おう、というのはもう会う気がないレベルなんじゃないかと思う。

なんかそういう人との付き合い方をしちゃあいけないなあと思う。

(別に、会う気がない上での「いつか」であればいくらでも使うべきだ)

 

とか、人の予定を天秤にかけたり。それが楽しいかどうかなんて自分が決めることであって、何も予定がないから誘いに応じるんじゃなくて、楽しそうだからで参加しなよ、と思う。なんていうか決断に責任持つべきなのだ。そうじゃなきゃ参加しなきゃいいだけの話なのに。

 

男女の付き合いだって

付き合わない理由が「彼氏がいるから」なら付き合ったほうがいいし、付き合う理由が「彼氏がいないから」なら付き合わないほうがいい。

付き合わない理由が「彼女がいるから」なら付き合ったほうがいいし、付き合う理由が「彼女がいないから」なら付き合わないほうがいい。

消去法で人を選択しない。

 

そうやって自分にも他人にも向き合おうともせずに、人が亡くなった時だけ悲しむなんて本当にナンセンスだ。

人生は理不尽で、不公平で、突然なんだ。だからこそいつだって、きちんと、公平にできることなら誠実に人に接するべきなのだ。

 

口に出したら終わってしまう。身につかないこと。そういうのを何度も経験しながら口を結んで乗り越えるんだ。簡単に口に出すな。

 

でもどんな風に過ごしても少なからず後悔はする。どこかのブログにあったけど

後悔することは避けられないことで、あとはその後悔をどれだけ少なくできるか、その日が来た時に自分は精一杯やったと自分を納得させられるか、

"後悔しないようにする姿勢"があるだけなのだ。

 

もうそれは"自分のため"なのだろうけど、そんなふうにいつ死ぬかわからないことをいつもいつもいつも意識しています。

 

だから結構やりたいことは人生前倒しなのですね。私。

 

もし私が死んだらどれだけの人が泣いてくれるような繋がりがあるかはわからない。でももし数人が後悔してくれたのなら、私はそいつの斜め後ろに立って(浮いて)ほらみろ、ばーか!ってあっかんべーしながら成仏するのだ。

 

私も誰かにそんなこと思われないように、できることなら誠実に、いたい。

こんな考え、誰も持ってないのかもしれないけれど。そこもダンス・ダンス・ダンス同じくそれでも私は正しいと思っている。

 



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