卒業に寄せて
母校が卒業式を迎え、4月という節目の季節に社会人4年目を迎える私から贈る言葉もくそもないけど、
よしなしごとを書いていく。
私が大学に入学した時「大学で作った友達は一生の友達」だと。誰かが言ってた。
その言葉の真偽はさておき、私はその言葉はあまり好きではない。なぜなら、それは大学でうまく友達ができ一生の友達に出会えた人の言葉だから。だからこのときこの言葉を聞いた私は期待よりも、不安のほうが大きかった。
「それじゃここで友達できなかったら終わりやんけ・・・。」てね。
さて、一生の友達はできたでしょうか。ここでできなかったら終わりでしょうか。
これからもずっと仲良くしようだとか、定期的に会おうだとか、またすぐに会えるだとか、
そういうことを言いながら卒業を迎え、別れるけれど。
社会に出たらそんなことは忘れて、すぐにそれぞれの道を歩く。いつのまにかぎこちなくなったり、連絡を取るのも忘れる。いつの間にか誰かが結婚する。子供が生まれている。それを知るのはFaceBookかTwitterなんてことにもなる。
でもそれは悲しいことじゃない。普通だ。至って普通だ。ふつうの事だ。
「一生の友達」。なんでしょうかそれ。
なにかに寄りかかって生きてるわけじゃない。
そんなことは大したことではない。友達は忙しい。夢に向かっている。歌を歌っている。買い物している。
恋人とデートしている。子供の世話をしている。仕事をしている。残業をしている。風邪をひいている。寝ている。
食事をしている。旅行をしている。
じゃあ今何ができる。夜中に突然寂しくなったら。
何ができる。友達に連絡できる時間じゃない。連絡できる友達もいない。何ができる。
孤独だ。
お気に入りの音楽を聴く。お気に入りの本を読み返す。みんなからもらったメッセージを読み返す。散歩に出かける。映画を見る。おいしいものを食べる。良い枕を買う。泣く。歯を食いしばる。お笑いを見る。
―だから、 知らなかった本に出会えたり。ずっと話してこなかった人に連絡をとろうとしたり。知らなかったカフェを見つけたり。美味しいものに気づけたり。知らなかったお笑い芸人が面白かったり。
孤独を知ってるから
飲むお酒はきっと美味しいし
食べる食事もきっと美味しいし
人と飲むお酒も食べる食事もきっと美味しい。
「孤独」。なんでしょうかそれ。
そして、私の心に残ってる言葉を改めて。
好死は悪活に如かず。―好死不如悪活
「好死」とは、立派な死に方、いさぎよい死に方。
「悪活」とは、みじめな生き方、見苦しい生き方。
:どんなにかっこ悪い惨めな生き方でも、
生き抜くほうが「どんなにかっこいい死」よりも優っている。
生きていくこと。
とにかく生きること。
孤独だろうがなんだろうが生きること。
闇を選んで走って行く人がいる。
自分の汗で自分を温める人がいる。
寂しさ目指して走っている人がいる。
今必要なことは今夜夢を語り合うことではなく
毎日そこへ行けば誰かがいる温かい場所でもなく
言わなくても察してくれる仲間がいる思い出の地でもなく
ひとりぼっちになるためのスタートラインである。
用意された機械的にまっすぐ引かれたラインではなく
そこにある小石を拾って、アスファルトにガリガリと自分で描いた白いスタートライン。
ひとりぼっちになるためのスタートライン。
Welcome to the party.(アメリカでは会社を辞め独立した人にこう言うそうです。)
そのスタートラインを跨いでこちらへようこそ。ずっとお待ち申しておりました。
ご卒業おめでとう。