夜に泣くのは赤ん坊だけって決まりはないのだし。
祖母の葬儀でした。
なんというか、私が祖母との関係性がどうのということよりも参列にきてくださる方がいらっしゃることの優しさに感動をしていたのでした。
別にそんな何百人という人が来たわけではないけれど、やはり自分の意志でみなさん来てくださっているのだなぁと思えば、ばあちゃんの人生は良いものだったのだろうなぁと思える。
亡くなった人の顔を見るのは、記憶がある範囲ではこれが初めてだと思う。触らせてももらった。冷たかった。傍から見ているとよくできた蝋人形を見ているのように錯覚してしまう。でも肌の弾力は人間のそのものだった。化粧をされ、生きているような血の気のある顔をして眠っていた。
このような形でしっかりと葬儀が執り行われ、参列者がきて、経を読み上げてもらう
とても幸せなことだと思う。ばあちゃんにとって。いえそれ以上に残された私達にとって。思えば、話が暴力的かもしれないけど、死んだ人間にとって現世がどのようになっていようが関係ないのだと思う。自分の葬式がどう執り行われているかとか確認のしようがないのだから。だから葬式とかこの儀式は、故人のためではなく、残されている生きている私達のための儀式なのだと思う。それをきちんとできることが、私達の気持ちの整理の上でも、感情の上でも、故人との関係をしっかり認識する、受け入れる、ために必要で尊厳だとかが保たれるのだと思う。
そう考えると、やはり大震災のときの故人に対する気持ちの整理の付け方というのは想像するのでさえ難しい。あまりそちらのことに関しては申し上げないけれど、祖母がきれいな顔をして、たくさんの花に囲まれ、棺の中に入り、火葬され、遺影が用意され、骨壷が用意され、食事会(お斎)が開かれる、そういうことができるのはとても幸せなことだと思う。前述のとおり、それは故人にとっても特に残された我々にとっても。震災ではその部分がきちんとできなかったのではないだろうかと思う。警察官の方がご遺体の顔や身体を綺麗にして遺族に渡し、「きれいにしてもらえてよかった」と遺族の方が話されることも多かったらしいが、ちょっとだけ理解できたと思う。
本で読む限りでは、そーゆーもんだよな、と思ってたけど、それだけじゃなくて顔を身体を綺麗にしてあげるというのはきちんとしたお別れ気持ちの整理をつけるってことでもあるのだと思う。故人の尊厳を保つものだ。
祖母においては長生きをしてくれたと思う。
安らかに眠って休んでじいちゃんと仲良くやって欲しい。
今頃受付にならんでいるのかしら。ありがとう。
いつか親も兄弟も私もそちらへいくからその時はよろしくお願いします。
ちょっとトピックを2つだして申し訳ないのだけど