遺体~明日への十日間~ に涙腺崩壊した話。
こんにちは。
先日、遺体~明日への十日間~を観て来ました。
東京ではもうやっているところが1ヶ所しかなく、多分劇場に居た人も20~30人程度。
(10分ほど遅刻をやらかしましたが)
震災に関する映画なんて、きっと誰もがすすんで観るようなものではないでしょう。
震災当時から十日間の遺体安置所を描いた物語です。
この予告をどこかで観た時から、いつか観なくちゃなぁと思っておりました。
観る前の印象として、クオリティが高そうだなぁと思っていたのもあり、
震災を題材にした、ただの感動物語に変えていない、そんな気がしたので
まっすぐ向き合える、そんな映画だと思ったのです。
(なんで、まっすぐ向き合いたいんでしょうね。ボランティアへも何かを助けたいとか、興味が!ってわけではないのに、何故か気付かないうちに目をそらしちゃいけないな、と心の底で思ってる気がします。
多分、いつか、私の近くで、何かが起こった時に、その状況に耐えうるだけの「備え」のようなものが欲しいのかもしれません。)
そして、観たところ。
涙が止まらない、止まらない。
泣いてたら、あれもう終わり・・・!というぐらいな感じでした。
話は逸れるけど、まず西田敏行さんの人情深い演技や志田未来さんの震災を体験するリアルな演技をはじめとして出演者の演技の凄さに、いたく感動しました。
間とか仕草とか、よくあの表現となって出てくるなぁと
本当に役者さんというものの凄さの一端を知りました。
この本当にセンシティブな話題を扱うにあたって、事実をありのままのサイズで伝えるべきところを
役者さんももちろん、演出やセットすべてが、ありのままのようなサイズだった気がします。
戻ります。
色んな想いを馳せました。
ご夫婦、子供、祖父母、妊婦さん・・・。
すべての人に人生があり、すべての人が濃厚な人生を送っている。
確かビートたけしさんがおっしゃってました。
「2万人が死んだ一つの事件、ではなく、1人が死んだ事件が2万件あった、ということ」
この言葉の意味がわかりました。
私は当時、「宮城◯◯地区で遺体が数百との~」という報道を聞いては
想像を絶する数字に、信じられない想いでしたし、文字通りそんな想像は全くできず
あるいは出来たとでしてもそれはグラフィックで語られるポリゴンで語られる、ゲームの中だけの
話だと思っていました。
でもそれではまだまだ想像力が足りなかったのだと思います。
私はその規模の印象ではなく、もっと個々に想いを馳せられたかというとそうではありません。
先のたけしさんの言葉ですが
自分と繋がりある人が亡くなる悲しさは、数字の規模の大きさなどと無関係だということ。
この映画を観て実感させられました。
もちろん量的に知ればどうこうの話ではもちろんありませんが
例えば、時間に置き換えてみたら、
2万人の方が亡くなられたとき、平均40歳だとしましょう。
20000×40×365×24=7,008,000,000
70億800万時間
70億800万時間分の思い出のある人が亡くなった。
無理やり量に変換すればこちらの方が実感湧きやすいかとふと思いました。
それだけの積み重なってた時間(そして未来への時間も含めたらもっともっと膨大)が
なくなったと思うと、(やはり想像は絶しますが)途方もありません。
そしてまた、映画で描かれることによって
些細なことが大切だと気付かせてくれます。
例えば
床掃除しましょう、毛布を綺麗なものに変えてあげましょう
顔を柔らかくしてあげましょう、祭壇を作りましょう、
気持ちを鎮めてくれるものでもいい、とにかく今この場で何ができるかを今考えて今動かなくちゃ
ということに気付かされました。
ボランティアに行くと、こんなちまちまやってないで
もっと抜本的にどうにかならないの、とか雑把な私は考えてしまうのですが
この状況において、じゃあそれ誰がどの方法でどうやって資材とルートと人を確保して
どこに許可取って、やるのか、って考えたらよほど現実的じゃないのです。
今いる人がやるしかない、もちろんもっといい方法を探すのも大事だけど
これは効率が悪いからって言って何も始めなかったら
なにも始まらず。
まず動けるのは、自分たちしかいないって現実を本当に腹から認識すること。
きっとこんな状況に陥ったら、目をそらさず、「やること」
(映画の中では「やるべし!」)という決意が必要になるだろうなと思わされました。
(話が逸れるけど、働く中でもそれは一緒で、
私なんかひとり部署なんだけど、もう今ココで何かをできるのは自分しかいないわけだから「やるべし」と思って取り組まねば、とも。
すっごく偏見だけど、こういうところ大企業(お金ある企業)の方は現実的じゃない気がしました。普通に暮らしている状況ではそれがそこにとっては普通なんだけど。そんなのCM使ってやればいいじゃん!みたいな。
0になった時に、自分が「やるべし」って思えるかどうか。)
戻ります。
みんな、わぁわぁ泣きたくて、誰かのせいにしたくて、あるいは自分のせいにしてしまって。
「なんで私なんかが生きているんでしょうか」って。
「俺らなんてただ助かっただけだろ」って。
そのセリフセリフに、この感情は言葉にできないのだけど
締め付けられては、涙が出てきました。
そしてきちんと見送られること、名前を呼んでもらえること
これが送る方にとっても送られる方にとっても
別に物理的にどうなる、ではないけれど、大事だなぁと。
きちんと手を合わせる。その人の土地の人生、時間を想像する。
そういうことが敬意かもしれないなぁと思いました。
私がいつ亡くなるかもわからない。
なのできちんと連絡を取りたい人にはきちんと取る。
言えなかったことは言う。
子供に対する見方も変わりました。
もっと寛容に、愛おしくなるというか、今ココにいるのがありがたいことなんだなぁって。
なんでしょう、うまく言葉にできないけど、守るべきものなんだなぁって認識が増えました。
震災だけでなく、今も映画をみた印象や感想や感覚が日常を重ねることによって
薄くなっていってしまうのは、どこか虚しく、悲しい気持ちになっていくけど
またこれを(DVDになったら・・・!)見返しては、感覚を思い出したいなぁと。
(10分見逃してるしね。)
震災に対する感覚のあり方を教えられた映画でした。
抽象的でごめんね。
90分近く泣きっぱなしだった映画は生涯これくらいです。
一番泣いた映画。
泣くの意味が他とはちょっと違うから別枠だけど。
素晴らしい映画でした。