handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

春樹節

その時の感情は覚えているんだけど、どうしてそうだったか、何がそうさせたのかはよく覚えていない。

あるいはごく控えめに言ってそれが誰だったのかも覚えていなかったとしても、それはあまり意味を持たない。

それは、その時がくればそれとわかる。

そしてその時はこれから先いつやってくるのかわからない、でもそれが来た時にはそれとわかる。

明日かもしれないし明後日かもしれない、10年後かもしれないし、もう一生来ないものかもしれない。

でもそれはその時がくればわかる。

説明しないとわからないことは説明してもわからない。

今はその時じゃない。時が来ればわかる。

私の言っている意味わかる?

好きや好意という感情は人を幸せにすれど、それがどうしてその感情がもたらされたのかは、それが過去の物となったときさしてあまり関係がない。

例えば、人を好きになった感情は覚えていたとしても、それが誰だったか、それがいつだったか、それがどうしてだったか、なんてあまり覚えていなくていいものよ、あるいは、忘れ去られるものなの。

負の感情もそうかもしれない。なにかが怖かったり、嫌だったり、そういうものはなぜ?とかどうして?とかと切り離されたものとなる。

そうであるならば、感情とか感動とか、心が動くとか、そういう一瞬が意味を持ち

その本能とも言うべき感情が後に残っていく。

それによって、生きていくことができることもあるかもしれない。

それによって、命を絶とうと思うこともあるかもしれない、あるいは。

そこで、だ。なら因果、原因は関係なく、楽しいことをきちんと楽しむこと、好きなことをきちんと好きになることが生きていく原動力にもなる。

僕の言っていることは間違っているのかもしれない。多くの人はそう思うだろう。

でもこれは少なくとも僕の意味の中では、正しいことになる。

そして僕はこの正しさを確信している。

僕の言っていることは難しいかな?