先日、お話した胸の痛み。
どうやら、肺に軽く穴が開いているらしいです。
軽い自然気胸というやつらしい。
ちょっと話し逸れますが、
当たり前のようにインターネットは過信しない方が良いです。
例えば、「気胸」って調べればそれなりにいろいろ症状、原因などなど出てきますが(これにしたって確証はないわけで)、「胸の痛み」だと広すぎて訳わからんです。
-こういう症状は緊急性はない。
-神経系による症状。
んー、PCの画面とにらめっこしたって意味ないんです。
そりゃ、「胸の痛み」なんていう抽象的なものでわかるわけがない。
とにかく病院いってどんなものか知ることが一番です。
確信が持てないものにいつまでも悩んでいても仕方ない。
うぅ、というわけで、本題に戻って
自宅安静・・・・。穴が自然に塞がるのを待つことに。塞がらないorもっと肺がしぼんでしまったら手術の可能性もありますが・・・まぁ多分大丈夫でしょう。
このままでは新歓参加できず・・・。(笑)残念だなぁ。
ともかくこの胸の痛みのおかげで「死」について考えることができたことはありがたいと思う。
なんだか人は死ぬことは意識できると思う。(よほど偶発的で突発的な事故でない限り)
あぁこれ死ぬな・・・。とか。死の感覚がまったく持てないときは死なない。とか。そんな気がする。
意外にフッとした瞬間にそんなことがわかって受け入れられると思うんだ。
やっぱり、僕は生きてまだ20年そこそこだ。
死を考えてみるとそこが一番つらいとこだった。まだこの世に何も残せていない。人の心にも残らないかもしれない。俺はなにもできていない。それが一番悔しいことだった。だからもっと必死にならなくてはと思った。
と同時に生まれながらにして、死を意識していかないといけない人とか、病気とか障害とか持っている人の生きる、ということにも考えが及んだ。たった今、俺は「もっと必死にならなくてはと」と書いたが、ただ生きることがどんなに凄いことかも感じた。
喜び、泣き、笑い、怒り、歩き、走り・・・そんなことが生きている証なのだ。
何かを残さなくてもただ単純になんでもなく笑ったり泣いたりできること、それが生きているということなんだ。そういう意味ではみんな必死に生きているのだ。
そう考えたら、生きてるってことがいやに素晴らしく思えた。
「それでも人生は素晴らしい。」ということか。