自分がなにをどう思うかというのを含めて運命はある。
実際は運命と呼ばれるものではなく、目の前の物事に対して、やりたいことやりたくないことがあるだけ。
ただそれをそう思うことも含めたら運命と言えると思う。
思えること以外思えないから。
自分がなにをどう思うかというのを含めて運命はある。
実際は運命と呼ばれるものではなく、目の前の物事に対して、やりたいことやりたくないことがあるだけ。
ただそれをそう思うことも含めたら運命と言えると思う。
思えること以外思えないから。
何者かになりたいというのも、
何者かになりたいと思ってる者でありたいというのも、ほぼなくなった。
これも「こっちはやりたいことをやるから、何者かと思うことがあればそっちで勝手に思ってろ」って感じだ。
日本は試されてるって、じゃあ御自分はどうなの。
当事者なのに他人事。
聴こえる音をメロディにしてみたらどうだろう…と生意気なことを言ってみる
が、それがインスピレーションになって
実際に着地する時、世界はなんてメロディに溢れているんだ!と思う。
世界は元からメロディに溢れてた
それに気づかなかったのは自分
それに気づけるようになるのも自分
人と幸せを比べることはなんとなくしない方がいいと思っていたけども。
幸せはひとそれぞれ。
人の幸せの形にいちいちいちゃもんをつけたり、比べたりする必要はなく
自分の幸せがわかってないとき、自分が幸せの方向に向かえてると思えないとき
他人の考える幸せと比べちゃうのではないかと思う。
具体的にいうと
自分が幸せだとか、なりたい自分から遠いところにいたとき3年前くらい。
その時、他人のツイート見ながらすごいこれみよがしのツイート!こんなの幸せに感じるだなんて人として嫌な人や、とかつんけん思ってたんだけど。
今(別に幸せとは言わないが)当時より自尊心は高まっているので、同じようなツイートみても
全くと言っていいほど心を揺さぶられることがなくなった。
それがあなたの幸せなんだ〜そうなのね〜。って感じ。
何が違うかというと
自尊心だろうと思う。
で、その自尊心は自分の幸せだとか取り組めてることを自分なりに自覚しているところからくるのだと思う。
他人の幸せがいやらしく感じる時、なにより幸せにならなきゃいけないのは自分である。
こんにちは。
2020となりました。今年もよろしくお願いします。
(喪中のためお祝いの言葉はは控えさせていただいております)
さて、本日うむむむとなりながら、未来のことを考えておりました。
今年は、二宮くんみたいになりたいとかいろいろあるんですけど
ひとまず自分が選択するということを意識したいと思います。
選択できないものは選択できないという選択をする。
選択を待つことを選択する。何事もトリアージュ。
選別をする。ということかもしれません。
なんというか、自分の判断のもので環境をつくっていくことを意識すべきだと思ったんです。それは物理的な環境でまず思ったんですけどね。
一人暮らしって(今年したいのですが)、ほとんど自分で決めるじゃないですか
家具から何まで。当たり前ですけど、そういう環境ってもはや「自分」じゃないですか。そういう環境やら自分で勝負していくべきなのではないか、いやそこまでいかずとも、自分が決めたものに囲まれるって幸せそうだな〜って思ったんですよね。
だから物理的環境に限らず、何かの選択をするときに自分がその選択をしているということにもっと意識的になりたいな〜と。
それが自分とは何者かという話にもなるんですけどね。
というわけで、2020は選択です。
言わずもがな、一人暮らししたときの洗濯もかかってます。(ダセェ)
隠れ目標の二宮くんになりたいというのは、ユーモアと真面目のバランスのお手本として勉強したいな〜と思っています。ユーモア、真面目のどちらの総量ないとそもそも出し引きできないので、まずは基礎体力(?)的なのつけたいと思います。
何言ってるかわかりませんが、2020よろしくお願いします。
そういえば、正月に初めて寄席を見たのですが、あれを一緒に楽しめる人だったらなんの問題もなく付き合えるんじゃないかと思いました。
ちょっと頭使うような噺から、ほんとくだらないものまで、あれで笑いあえてたら最高だな〜と思ったのでした。
殊更に言うことではないけど、ユーモアとか楽しいというのは、あって当たり前くらいにとっても重要なことです。ランディさんも言ってたけど、魚が海について「重要」と言ってるようなレベル。
大体彼女が欲しいときっていうのは自信がないとか不安なときなんじゃなかろうか。
その自信や不安の埋め合わせとして誰かを欲しているのではないのか。
それ自体は別に良いけれど、果たして未来の彼女はその状態の自分を好きになるのだろうか。
考える時間に考えたこと。
昔、学生の終わりのときに、ウユニ塩湖とかマチュピチュとか見ながらこういう経験は人生を豊かにする、と確信に近く思ったんです。「人生ってどれだけ心が動く景色を見れたかじゃない?」って。んでやっぱり歳とったり環境が変わったりすると、単純に海外の景色を見に行くのにも億劫がったり、お金や準備のことで現実味がないなとか思ったり、そもそも行きたいという欲がなくなってきちゃったりするんですけど、それでも例えば「ウユニ塩湖に行った」という“事実”はやはり人生の中で良いことであって、誇れることであって、それがあるから話せることもあったり、やっぱり自分の人生を豊かにしてるんです。
転じて、昨日の大会議(マツリズムがイベントを行ないました)やそれまでの釜石まつりやらその他の祭りやもちろんマツリズムメンバー含め、の景色(祭り当日、イベント当日だけじゃなくmtg含む)をこの目で見れたことってやっぱり普通じゃあり得ないというか、こういう“事実”もまた自分の人生を豊かにしてくれてきっと後で、ちょっと誇れるようなことになると思うんですよね。
(今回小島よしおさん呼ぶとかチャレンジングなこともありながらそれをこなせたり。中心で頑張っていただいてるあんくん、ゆきさん初めの皆様の活動があるからこそ成り立ってるんですけど、そこに敬意を払いながら)
何を言いたいかというと、そーゆー見れなかった景色見に行くの良いな!ってことでした。んで、見れなかった景色をマツリズムで見に行くのいいな!ってことでした笑。
まぁ諸々何か考えなきゃいけないことはあるでしょうが、とりあえずの所感でした!
景色が見たい!!
景色が場所だけじゃねーんだぜ、人もだぜ。
良い景色を見に行きたい。そのために人生を使うって良いかもって。