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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

就活と自己分析

ふと思ったけど、なぜ就活とかあんな自己分析するんだろうね。

 

自己分析ってあんま必要ない気がしてきている。

 

なぜあんなに内に向かうのだろう。

向かう必要あるのか。

 

他人ならその人をよく見る必要はあるよ。

つまり面接官がこの人どういう人か見極めるため、他者分析は必要だよ。

 

でも見られる側の自分が自分のこと分析する必要あんまなくね。

 

面接に場においての質問に対する自分の考えの言語化は必要かもしれない。

それは「こいつなんも考えてないな」と思われないために

「コミュニケーションできないやつだな」と思われないために

 

でも自分が何が好きかとかどういう人間だとかって自己分析という内に向くことでわかることではないと思う。

 

好きかどうか、過去、それらを必死に言語化してただの言語の箱に入れて型にはめた自分が果たして本当に自分を捉えられているかと言えばそうではないし、

そうやってうんうん悩んで出した答えって結局自分が好きだと思うことからかけ離れていることも多いと思うんだよね。

 

それよりもなんだかよくわからないけどやっちゃってることとか、時間かけちゃうこととか、それがないとストレスになっちゃうこととか、の方が圧倒的に自分の好きや方向性や特性を表していると思う。

 

そしてそれらは言語化する必要がないと思う。というかすることによって感覚とズレるから。

 

じゃーどう選べばいいんですか、って思うかもしれないけど。

 

そりゃもうなんとなくやだな、とかなんとなくいいな、だけで判断すればいいと思う。

 

んで、それ以降はそこに入るための戦略を考える。そんな感じだと思う。そのための言語化ならすべきだし、そのために型にはまるならはまるべきだと思う。

 

でもそのなんとなくいいな、やだな、を言語化しようとすると本当は嫌な部分だったり、本当は良い部分に気付かず、後からそれがストレスになったりする、と思った。無自覚だけど必要不可欠な要素を見逃し、実はストレス感じてても選んだ仕事は好きなはず!と自分を洗脳しなきゃいけない事態になっちゃったりすることもあるだろう。

 

だからそういう意味で自己分析はいらない。

過去なんか照らさなくて良い。

今それが楽しそうだったらやればいいし

楽しくなさそうだったらやんなきゃいい。

 

っていうと今だけ楽しきゃいいのかって言い出す人もいると思うのだけど、もはやこの「楽しそう」の時点で「何を楽しいと思うか」みたいな主観の価値観が入りまくるのであんまり心配いらないと思う。

 

将来の安定がなきゃ楽しめない人はそもそも先の見通しが見えて安定している環境じゃなきゃダメだったりするし。

 

だから何をするかは今に重きを置いて考えればいいと思う。

それがどうやってできるかはまた別のお話。

 

これらを全て自己分析で成り立たせようとすることが間違い。

 

 

 

っぽい。

 

と思う。