handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

アタリマエ体操

佐々木俊尚 on Twitter: "鋭いなあ。人は自慢から逃れられないけれど、これは自覚しておかないと>自慢するポイントは人の「限界」なんです。あなたの限界はなんですか? 大学ですか。会社名ですか。役職ですか。/​いつまでも同じ自慢をする人たち|林伸次 https://t.co/gTwwdj5hYC"

 

当記事はあたりまえ体操(COWCOWさん)とは関係ありません。(念のため)

 

冒頭のツイートを見つけて

記事の中身を(有料なので…)全て読んだわけではないけど、自慢と限界について考えたことがあったので書く。

家系の自慢が止まらないとかそういうことはよくわからないけれど。

 

自慢が限界だと言うのは結構その通りだと思う。

というのも自慢をすると言う事は自分にとっての非日常であるからだ。

自分にとってそれが当たり前だった時は自慢なんて言う行為もしくはツイートにならないはずだ。

 

イチローさんで考えるとわかり易い。

イチローが今日素振り何本やったとかいちいち報告したりはしない。

レベルが違うけどそれと同じように私たちは今日歯を磨けたとかいちいち言わない。

なぜならそれが当たり前だからだ。

でもこれが3歳時だったらどうだろう。歯磨きということも時々ツイートしても違和感は無いかもしれない、歯を磨くという行為がその3歳児にとってチャレンジングで人に言いたいようなことだったならその気持ちもわかる。でもそれをいつまでも続けている限り歯磨きという行為はその子にとって当たり前にはならない。

続けているから日常にならないのか、日常になったから言わなくなったのか、ここの因果は正確にはわからない。

でもとにかく、言わなくなることが当たり前になることなのだと思う。

 

んで、どんな分野でもトップレベルにいる人は、すごいことができるんじゃなくて

この当たり前だと思っている水準が高い。ということはよく聞く。

 

株の世界で言えば、前日にチャートを300個くらい目を通しても当たり前だし、業績とかランキングとか節目とかチェックしておくのは当たり前、なんていった風に。

 

普通の人が気合い入れなきゃできないことを、もはや当たり前レベルで習慣になっていたりそれに対する抵抗をなくしていたりする。

 

ツイートや自慢をする限り、それは当たり前にならないし、非日常のいつもの自分ではない自分を自分から作りにいってしまている。

 

その意味で私はこの1年くらいは、電車で席を譲ろうが、人に親切にできようが、そういう体験を誰かに言わず、胸に秘めることにしている。誰かに相談されることは嬉しい。でもそれを(昔だったらちょっと自慢げだったかもしれない)頼られた自分として誇張することは、非日常の自分になってしまう。

だから嬉しくもあるけどそんなことは人に言うものではないなと思うようになった。相手のプライバシーとかじゃなく、自分の当たり前として捉えるために。

 

ツイッターなどで描かれる自画像はその人の限界だ。

ツイッターに描かれないその人の当たり前こそその人を表し、その行動にこそその人がいる。

 

人には優しくありたい、でもそれを口に出しちゃあいけない。

それが当たり前になったとき本当に優しい人になれるのだと思う。

 

もちろん優しさだけじゃない、仕事もそうだ、自分のレベルもそうだ。

芸能人に会えたから自慢する?一緒に写真撮れたからSNSにアップする?

そういうことをする限りそれが当たり前の世界の人と圧倒的で確固たる壁を断絶を自ら作ってる、そんな気がする。

それが当たり前になった時には自分のレベルが上がってもっとすごいことできるはずなのに。