「昔は自分を変えないこと、突き通すことがかっこいいと思ってたけど、今は状況に応じて自分を変えること、目的のために自分を変えることができることがカッコいいと思うようになった」
的な言葉を聞いて、当時(数年前)寂しくなったのを覚えている。いや一見カッコいいんだけどさ。
それが大人になる、と捉えているようなことは、悲しいことのように感じられ、置いてけぼりにされたような感覚だった。
結局それ、何かをガマンする言い訳に使ってるようにしか聞こえなかったから。
本人はガマンじゃなしにそう思ったのか、ガマンのためにそう思ったのかわからないけど。
(大体ガマンじゃなしにこの発言がわざわざ出てくることはあんまりないと思うけど)
でも最近思うことは、
これに対してなぜ寂しさを感じていたかということだ。思えば、今もガマンと書いたけど、なんとなくそれは自分をすり減らすような行為に思えていたのだよね。
でも最近いろーんな人といろんな話をした感じこの行為のような判断ができる人(抵抗がない人)はその自分をすり減らすという感覚がないのだと思った。なんでないのかといえば、その決断によって自分が変わるとか歪められるなどと思わないのだ。多分自分に自信があるのだと思う。そんなことによってなんか私は変わらないとどこかで(意識的か無意識的かわからんけど)思ってるのではないかと思う。逆説的だけどだからこそ自分を変えられるのだ。
そこまで意識的かどうかわからないけど、そうでないとしても“合理的”にそうすることがメリットがあると判断できる人だし、その理由によって判断が下せる人なのだと思う。もしかするとそうするために合理的(客観的)な理由が必要だったのかもしれない。囲い込むように、自分が動く理由が必要だったのかもしれない。すり減らす道じゃない道を通っているからこそ行動を変えることに違和感がないのかもしれない。無意識的に受け入れられる素質の持ち主だったのかもしれない。
対してそれに違和感を感じるのは、自分がそれに影響される、自分ではなくなってしまうような脆い部分、繊細な部分、感覚が(思い込みを含めて)あるからではないかと思う。
思えば、確かにそうすることで失われる、と思っていることは幻想なような気もしている。もはや大事なことはそこではなく、そういうことができることは社会からの評価が一般的に恐らく高いであろうという合理的なメリットだ。
まぁここで終わらすと、なんだてめーもガマンするための合理を持ち出すんかと思われてしまうけどそうではなくて、その違和感を感じるような特性も結構大事だと思うのね。
んでそういう感覚を大事にというか、もっと強みとして認められるためにも、そういう考えは排除するのではなく取り込む方向で考えたほうが良い気がすると思ったということなのです。
もっと言えば、最初から合理的な判断を下せる人に比べて、確かにめんどくさくはあるけど、それだけそういうめんどくさい人の気持ちもわかりつつ合理的にもなれる人っていうポジションなのよ。
この微妙なニュアンスの違いって結構(それこそ自分をすり減らすとか考えてた繊細な人にとって)重要でそゆ人たちの納得を得られることも物事を進める上でプラスに役立つことだと思うのね。
それが具体的になんだと言われたらまだわからんけど笑。それは自分でそーゆー世界はどこか探さなきゃいけないし、私もまだ答えが出てないところだし、出せたら、ポジショニングできたらいいなと思うところであります。
もちろんこういう考え方にも受け入れ易い難いはあると思うし濃淡のあるものだと思う。
でもその主観とか納得を殺すでもなく、それを持ったまま合理的なことにも理解ができればその世界では強みになることもあるだろうし、何より一般的にそっちの方が恐らく評価が高いように思える。
だから冒頭の発言に無闇な寂しさはもう感じない(でもやっぱりそれがガマンから出た言葉なら感じる)。就活でもおそらくこういうことって悩みがちなんだけど。(特に合理性だけで物事を判断することに抵抗がある人にとって)
否定するじゃなくそれが力に変わる世界もあるような気がするのよね。
確かにその発露は合理とか数字とか目に見えないものかもしれないけれど、それをありがたがる人も合理の世界でいると思うのよね。
もちろん全ての世界(例えば極端に合理が好まれる世界、金融とか?)で通用するかはわからんけど。
全てを否定、断定しなくても、そこに発露があるような気がしている。
ま、どっちかに振り切っちゃえば楽だけど、私はそうじゃないし、大半の人もそうではないと思うから。