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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

自己評価

私は自己評価がかなり低い部類だと思う。

これは客観的な話じゃなくてもちろん主観的な話だ。

私が何をしようが何に挑戦し結果がどうなろうが、私にできたことはきっと他の人にもできることなんだろうなぁと思う時がたくさんあったし、ある。

 

でもね、やっぱり株式投資(のように難しいこと)は大事な経験だったと思う。

 

俺ができない(それはある種の時間軸の話だけど)んだから、ここに心血注ぐ経験は一般的に誰でもできることじゃないだろ、って自負がある。

自負もあるし、できなかった限界てきなものを感じたうえで思うことは

 

自己評価が低い、自分ができることは人もできる(だから自分は大したことない)と思うことはある種の意味でとても傲慢なのだと思った。

 

それは時には、なぜこんなこともできないのだろうと他人を見下すことにも繋がるかもしれないし、他人のその人だけが持つ特性を見るメガネを曇らせることに繋がるんじゃないだろうか。

 

2018/01/22

追記:たいしたことないと思うのはどこかに存在している、自分ができてることからも目をそらす行為だ。自分はなんでもできると思っているからこそ全てが一様にできてないと思い込むのだ。できるところもあるできないこともある、そう捉えるのが恐らく等身大の事実でありのままだろう。大したことないと言い張るのは本当はもっと全てがもっとできると自分で思ってるからでそれは傲慢だ。

 

できる人間もできない人間もいやしない。

自分が大したことないなんて思うことは既に傲慢だ。

たしかに大したことないかもしれない、でも大したことあるところもあるかもしれない。

 

大したこと大したことないことそんなものにも意味はないかもしれない。

ただただ私は他人とは違うということ。

 

思えば私は他人と違うことに結構恐怖を感じる(そんな人生選択しておいて何を言うというかもしれない)。恐怖を感じるからこそ、それに屈したし、それに反発もする。ただそれだけだったような気もする。

 

マラソン大会を練習する子供たちを見て思った。私はその時走ることをやめることを選択肢に並べることができなかったろう。歩くことが怖かった。走ることが正解だと思ってた。走らないことは不真面目、走らないことは他人と違うこと、そんな思いもどこかにあった。

 

努力すればなんでもできるという思想はそれ自体素敵だと思うけど、どうしてもできないという感覚を蔑ろにしがちだ。

どうしてもできない(いや結果的に言えば出来るようになるけど)感覚、それに対する対処、を経験すると、ある種謙虚になった感じがした。

 

なんか他人のことを思うし、謙虚になった気がしたからこそ、今までが傲慢だったなぁと感じたのだけどね。

自分の弱さを見せないとか、自分を客観視できないとか、恥ずかしさで合理的な選択から逃げるとか。

それは自分がもっとできると思ってたからもしくはプライドが高かったというよりも、弱い自分は存在価値が無いだろうと思ってたからといった方が近い気がする。

 

(だから恋愛に関しては人それぞれの違いがあるだろうと分かってたから他人にすぐ相談できてたんだなと思う。それは努力の及ばない範疇だから)

 

強さとは弱いと知っていること、というのをなるほどなぁと思うのであった。

 

だから、弱さ知ってる人、それが若いうちに体験できた人は本当に良いと思う。羨ましいくらい。