ここ数ヶ月考えてた自分にとって大切なものは
(できれば誰かと)広告的手法による課題の解決
(できれば誰かと)遠くに行くこと
が今の言葉になっている、私が言葉にできる、私の好きと認識しているもの、大切にしたいものだ。時間を使う上でと考えたほうがいいかな?
いやもっと義理とか人情とか誠実さとか大切にするものはあるけどそゆのじゃなくて方向的?趣向的?に好きなもの。
とりあえずでも、この先変わってもいいから言葉にしておくといいかも。
迷ったときそこに立ち返られるから。
そこで違和感が出たらまた正確な言葉に近づけていく。
そうやって自分を知っていく。
ということで進んできましたけど、こういうのを自覚しておくともちろん他人にも(自覚的か無自覚的かわかりませんが)そういうものってあるんだよなぁと思う。
だからこそ、相手のそういうものは尊重すべきなのだと思う。
また愛だの恋だのの話で悪いけど、昔って、その尊重すべきものが一緒がいいと思い込んでいたと思うんですよね。
もちろん一緒のほうがいいんですけど、もっと正確に言うと一緒じゃなきゃ成り立たないのではないか、と思っていたんですよね。
そういうものを相性だとか都合のいい言葉にしてそれが100に少なくとも近くないといけないと思ってましたよね。
まぁそれがもしかしたらベストなのかもしれませんが(もはやそれすらちょっと疑いますが反例はありません笑)、相手が大切にしているものが何か理解できたらそれでいいのだと思うようになりました。
相手が尊重しているものがなんなのか、そしてそれを尊重できれば、それで良いのだと。
尊重しているものを尊重できること。これが何にせよ大事なのではないかと思います。
もちろん違った人間です。いろんな違いがあります。
だからといって、ゴルフでいうところのホールインワン、大切なものが同じ、価値観、理念、宗教が一緒の人じゃないと生きていけない、そういう人と生きていったほうがいいと思うのか
でもカップには近づくアプローチはいくつだってある、バーディだってパーだってボギーだって打数はかかるかもしれないけれどカップには入る、違うところがあったってお互いに理解して認め合えばそれでもいいと思いながら生きていくのか。
今まで前者に近かったんですけどね、自分の大切なものを明文化(未完成)できてからは後者に近づいた感覚があります。
大切にしたいものはもちろんあるんですけど、それが100%その人を表すかといえばそうではないから。いろんな決断はそれに依った決断になるだろうけど、それがわかってたら、それは自然にじゃなくても、ずーっと一緒にいた経験からでもわかってたら(そしてそれを尊重できるなら)、それでいいし、むしろ素敵なことではないかと思いました。だって二人が時間を使った結果なのだから。
尊重できない人と付き合う意味は無いけど笑
自分を規定したらそこで終わってた。
自分はこういう人というのを断言しない。
こういう傾向はまぁあるけどねぇくらいで留めておいたほうがいろんなもの拾える気がする。視野が広くなる。
最近、10年越しとか6年越しとか、その昔に引っかかった言葉や行動とかが一気に説明できていく機会が多い。