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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

覚悟の話

ずっと戦ってきて、前回のエントリーでも書いたけど、ようやく頭の中で株式投資が占める割合のイメージがついてきた。

 

そしてわかった(と思う)のは、結論として出ているのは、株式投資には銘柄によってあるいは見る指標によってあるいは需給によってさまざまな時間軸があり、それぞれよってやり方、判断の仕方があるということ。

 

短期であればあるほど当たり前だけど細かく手を動かす必要がある。

ちなみに全部できると仮定したら短期が1番効率よく資金が増えるだろう。

それはわかっているし、そのやり方もわかるのだけど、どうにもそれができない、手が動かないのだ。それは数パーセントを重ねるという行為ができないのか、もしかしてここ耐えたら…とか無駄に毎回思うからなのか、そうして上なり下なり行ったときに感情をうまく扱うことができないからなのか、どれができないのかはたまたどれもできないのか、ともかくそれは私という人間である以上難しい話のような気がした。あるいは今の資金量のことも関係するだろう。でも多分そのやり方だといくらやり方がわかってももはや私という人間の特性上無理なような気がした(もしかしたらそれを才能と言うのかもしれない)。

わかりやすい例えを考えたけど、うーん

例えばスキーをしようがスノボしようが斜面を下るという行為は変わらないじゃない。

そこでスノボはどうしてもできないって感じ。

スノボである以上できない。みたいな。

 

もう少し中期でみて、のスピードでというか大体その枠組みでみているものが思った通りなことが多くて。いや短期でもそうなんだけど、期待値に対する扱い方が違くて短期の方がもっと需給というかスピード重視だから上とか下を待たずに行かなきゃいけないから毎回自分が振り回されちゃうのです。

 

そこで中期(スイ)でみると、スピードはそこまで早くないから、上がるまでの時間がもったいない、と。

そんなことや前回思うこともあって

 

就職活動を始めることとしました。

 

なんというか、側から見ると、逃げというかそんな感じもしちゃうんですけど、自分の感覚としてはそんなに敗北感があるわけでもなく(わかったと思っているのだから)、わかったからこそ私はそこで(短期で)かじりついてやる必要がない、いややるべきではないという判断に至ったから。

わからずに単に資金がなくて(いや資金は無いんだけど)、諦めるというかドクターストップ状態だったら敗北感がもっともっとあったかもしれない。いやもしかしたら今もその敗北感を拭うために必死に自分で自分を騙してるのかもしれない(そんな感情はどこ探しても無いようには思えているけど)。

 

なんというか、例えると給食が選べるとして、選択肢がタンドリーチキンかゼッポレ・ディ・サンジュゼッベだった時、ゼッポレの名も味も外見も知らないのに、タンドリーチキンを選べるわけもなく。ゼッポレの味も見た目も確かめて知って、ようやく戻ってきた。そんな感じ。

 

二股に分かれた道の一方の先まで歩いて確かめた。進むのは正しくは言えばその“どちらか”ではない(株式投資は働きながらでもこの得た知識で戦うことが出来るから)けど、またその二股に分かれるところまで戻ってきた。

 

だからさぁ選ぼう。改めてどっちも知ってるフラットな気持ちで。という感じ。

でもそうやって選ばれた道は覚悟と責任が違うでしょう。もはや迷いはない。(と言っていいだろう)三十にして立つ。(まだきっと立てたとは言えないけど)

 

ということ思った。

 

というと、なんというかずーっと働いていや働く前からずーっっと引っかかってた、覚悟について気づく。

前職は(多分就職氷河期ということも影響しているだろう)それにどれだけ覚悟があるだろう、いつか辞めるんだろうということしか思えてなかった。まずはやってみてそこで考えるみたいなスタンスで、とりあえずの一歩だった感覚がずっとあった。し、なんというか誰と過ごしても一生これということは無いだろうとどこかで思ってたし、誰かと付き合うとなっても、今のままで結婚とかしたら一生このままなの?とかそんな恋人を持ちながら会社を辞めるとかそんな選択肢選べるの?とか少なからず思うところがあったことを思い出した。思えば唯一後悔したと思ってた大学4年の時でさえ、好きな人と付き合えそうな時でさえ、そんなことが頭をよぎってた。

いや、もちろんそんなこと関係なく、私自身、私という人間と過ごしたいしそんな覚悟を持った方ももしかしたらいらっしゃってくれたのかもしれない。ただそこがどうであれ、私がそんなリスクに誰かを晒すことなどできないと考えてた節もあって、そもそも私が、そんな状態である私を許すことができてなかったような気がしてきた。私がそんな状態である以上、掴めるものも掴めないし何より握力弱すぎる。

 

ということを考えると、なんだ私がやりたいことというかやるべきことへの覚悟が決まってなかっただけじゃないかと思った。この約7年間。それはどこかに現れる。どこか今見えていないものの中に、どこかに正解があるんじゃないかってずっと心のどこかでもがいて、もがいてる最中の自分を認めてあげられなくて、そんな自分がのうのうと過ごしていこうとしてることが許せなくて。(もちろん楽しい思い出もたくさんあります。でもそれは束の間のというか、結局その手前にある自分自身の問題を解決してないから何かに踏み出せるわけがなかったのではないかと)今思えば、そういうことじゃないかと、思います。覚悟がないものを抱えてうまくいくはずがありません。わかりません、もしかしたら言い訳かもしれません。笑。でも確かに当時にもずっとあったもやもやがこの説明で全て説明できるような気がしたのです。

 

すべてを簡単に説明できるような仮説って素敵ですよね。

 

株式投資でもある原理原則の答えというか結論にたどり着きましたけど、これでもたどり着いた気がします。解決するときはいつだって一気です。一気にくるんです。全てが解決するときが。

 

それについて言えば多分今までも、彼女や恋人や妻になったときに私が大切にできる人の類いの人もいたのです。

でもそれはそもそも上記のように私の状態が詰まってたからそこまで考えられなかったのです。

それをタイミングやフィーリングと言ってしまえばそれまでなのですが。その原因とその解決近づいたような今ではやっぱりフラットです。

自分ができるとかできないとかそういう話ではなくて、知ったように思います。

 

魚は水槽に入れられたらその隅まで泳ぎまずどのくらいの大きさなのか確かめようとします。(え、海だったらどうしてんの?)思えば今までずっとそうです。中学は3年で、高校も3年で、大学は4年で、確かめてできることを精一杯楽しくしました。社会人は今思えば約7年かかりました。それは自身の天井を決めることではなくて、そこで良いパフォーマンスを出すために先に人生というものが、社会人というものがどういうものなのか、生きるということがどういうことなのか、それを知りたかったのです。

もちろんここが唯一の解ではないでしょう、でもパフォーマンスするにはまずこの解が必要だったのです。いや天井と言われればそれまでかもしれません、でもこの空間の中で私ができること、助けられる人、挑戦できる物事は死ぬほどあると、今はそんな風に思います。

 

大海は際限がないけれどね。

それは次に考えたくなったら考えましょう。