handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第2幕。

生きる理由・死ぬ理由

死ぬ理由に勝る生きる理由が見つからない。
と言ったのは、秋葉原通り魔事件で加害者となった人の弟さんだっただろうか。

詳しくは検索なりしてもらえればと思うけど、この話を聞いた時、ほんと切ないなぁと思った。ニュースを取り上げてあれこれ書くつもりは毛頭ない、これを引用したのは、冒頭の言葉がもっともだと思えたからだ。

おそらく多くの人は、死にたいと思いながら生きてはいないはずだ。例えばー場合分けして考えてみるがー何かに生きがいを見つけている人は問題ない、楽しく生きてくれ。てなもんだ。では次に「なんで生きているんだろうか〜」なんてぼんやり考えている場合(これが大多数じゃなかろうか)。ここにもきっと生きる理由はいらない。確かに生きる理由はないかもしれないけれど、それ以上に死ぬ理由がないから。
怖い体験や苦しい体験、あるいは家族や赤の他人に少なからず迷惑がかかる死を選ぶ理由が一般的にはない。だから別に生きる理由なんかなくたって生きることを選ぶ。でも特に明確な理由がなくたって生きてるということは全然ありだと思う。ー息をすることにもいちいち理由が必要なのかいーと誰かが言ってた。生きる理由と出会わなくても何かしら楽しいことがちょっとでもあれば、「これが生きる理由だよ!」なんて天の啓示を受けずとも別にOKだと思う。天の啓示がどうしても欲しいなら啓示に出会えるくらい動けばいいと思うし、もうそういうのは運だろう。人によって天の啓示に出会える確率が備わっていたとして50%の人なら何か2つのことに挑戦すれば出会えて、1%の人は100個の挑戦をして出会う、そういうものだと思う。

で、ここからは、死にたいと思っている場合。
これはなかなか深刻にはなりたくないけど深刻だ。もうすでに死ぬための怖い体験や苦しい体験を厭わないときている。
その場合、冒頭の言葉のように「生きる理由」が必要なのだと思う。それは大多数の凡人が思う「生きてることに理由なんてないよ」とわかった風な顔で済まされるものとは違う類の、もっと逼迫した理由なのだと想像する。息をするにも理由が必要だ。

それは大切な人や生き物や関係性や地位や責任感とか震えるような体験、か何かはわからないけれど、支えとなるなにかが確実に必要だよなぁと思う。

翻って私が死なないのは、死ぬ理由がないからというのが多分一番近い。

でも誰だって一寸先に死の側に近づく可能性もあるはずだ。
その時本当に生きる理由が問われて、果たして「死ぬ理由に勝る生きる理由」を見つけられるのだろうか。
絶望の淵に立つ自分を、その人をつなぎとめることができるだろうか。