誰かの熱意を、誰かの幸せを、誰かの悲しみを、誰かの死を、自分を演出する道具として使う。
「ねぇ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。(ダンス・ダンス・ダンス/村上春樹)
それをどこに書いたら装飾品だとか線引きはないけれど、口に出して、みんなに見てもらうことで、自分の装飾品にしてしまう。
誰かの人生は君の人生の装飾品じゃない。人の人生で着飾るんじゃないよ。
例えば夢を追う友人がいたとき、自分ができうる行動は今の所ふたつだ。
ひとつはその人の夢が叶うようにひとりでも多くに拡散すること。「ビンボーだけどいい曲書くんだ…」なんて呟いたってその人のためにならない。いい曲だと思うならそれを価値だと思ってくれる人に届くように、リツイートなりシェアなりすればいいだろう。
ふたつめは、悔しがることだ。夢を追っている人間で自分を飾ろうとせず、それができない自分を悔やめ、そして今すぐ負けないように行動に移せ、ってなもんだ。
ジャーナリストの竹田圭吾さんが亡くなったとき、私にできたことは、どれだけ素晴らしい面白い人だったかということを伝えるだけだった。縁もゆかりもない私がSNSで冥福を祈って何になるのだろう。何のアピールだろう。人の死を利用して自分はこんなにも知見の広い人間だとアピールするのだろうか。人の死はそうやって消費されるのだろうか。冥福なら静かにひとりで祈る。
「ねぇ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。身につかない。(ダンス・ダンス・ダンス/村上春樹)
そういうある種の物事がどんどんSNSで消費される。みんな口に出す。悲しさも悔しさも喜びも驚きも。
それ自体否定しないけれど、結局そこで終わってしまう。
胸にしまって、何度もなんども反芻する、反省しきれない経験がある、いつまでも悔しい、いつまでも悲しい、それが詰まるところそれほど重要な体験をしたということなのではないだろうか。
悲しいことを悲しいと口に出して終わり、そんな簡単なことではない。
もしかしたら村上春樹さんが言うように、これは礼儀の問題であり節度の問題なのかもしれない。
口にすればするほどに物事は軽くなる。
他人の人生で自分を着飾りたくはないね。