handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

「ちょうどいい」は贅沢だと思う。

大量消費社会云々。
環境問題云々。

過ぎたるは及ばざるが如し云々。

いろいろな時代を経て、時代は「ちょうどいい」だと思うようになりました。

例えば多くのお金を手に入れようが少ないお金だろうが、それがちょうどいいっていうのが一番いい。

パンを切るためのちょうどいいナイフがあることは贅沢なことだ。

パスタを茹でるためにちょうどいい鍋があることは贅沢なことだ。

東京が一番自分のとって一番ちょうどいい場所で過ごしているなら贅沢なことだ。

高級なフランス料理じゃなくても、自分の口にちょうどいい料理が食べれたら贅沢だ。

誰もが羨む景色じゃなくても、自分にとってちょうどいい安心できる景色があるなら幸せだ。

シモンズのベットじゃなくても、あるいはシモンズでも、ちょうどいいなら幸せだ。

そして、自分のちょうどいいを知っている人は恐らく幸せだ。

競争することもなく、嫉妬することもなく、自分のちょうどいいをきちんとわきまえていて、自分のとって適切な選択をしていけること。



でもそのためには、過ぎたるは及ばざるが如し。
過ぎたるも及ばざるも経験してこそ自分のちょうどいいがわかったりする。


お金も一度大量に持ってみたり
無一文になったりしたらちょうどいいがわかるんだろう。

仕事の拘束されてみたり
辞めてみたりしたらちょうどいいがわかるだろう。


やる前からちょうどいいがわかってるなら、それに越したことはないけれど、

幸せは必ずしも、夜景の見える場所で素敵な彼と食べる高級なディナーとは限らないし、不幸せは300haの原っぱでひとりで食べる雑草とも限らない。

もちろんそれが幸せだったり不幸せだったりしてもいい。

要は何が幸せかわからないなら幸せになんかなれない。

わからないんなら右も左も行ってみよう。
あるいは右も左も行くことが君の幸せかもしれない。


何が君の幸せ?何をして喜ぶ?
わからないまま終わる?そんなのーはいーやだ。

350円のわせ弁の中にも幸せはたくさん詰まっている。
みんな1000円出し合った鍋だって幸せは詰まっている。

ちょうどいい幸せ。
それを見つけるのは多分えらく困難だろうけど。

でも見つかったらえらく自立した自分の人生100%送れる気もする。