今日あさ活をしまして(一人)
そこで読み終えた本なのですが、そこでふと考えてしまったことについて。
投資は「きれいごと」で成功する――「あたたかい金融」で日本一をとった鎌倉投信の非常識な投資のルール
- 作者: 新井和宏
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2015/04/17
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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今まで、資本主義経済において、競争ってまぁ、良いものとされている気がしていて、まぁ商品選択とかそういうことにおいて、消費者(私達)にもたらしてくれるメリットのほうが大きいし、あるべきものなのだろうといった感覚があったのですが。
社会性のある企業もまた、より大きな社会性のある企業に負けてしまう。
ということが起こる時に、なんともいえない不条理さというか、すっと入ってこない感じがありました。(そしてそれを解決する考えの糸口は見つかっておりません)
この本の中にはこのような事がありました。
エフピコという会社は食品トレーやペットボトルなんかを作っている会社で、使用したトレーなどを回収し、リサイクルして「エコトレー」として販売しています。障害者雇用率は16%と、社会性も高い企業です。
一方、日本環境設計という会社は、ゴミのほぼすべて燃料として再利用させる技術や仕組みをビジネスモデルとしています。流通小売の現場で誰もが気軽にゴミを持ち込める、そしてリサイクルされる循環型社会を目指しています。
つまり、後者の仕組みがより完成すればするほど、前者のトレー回収・リサイクル事業は必要無くなります。むしろ、手間や人件費だけがかかる取り組みになってしまいます。
つまり、エフピコのように、リサイクルを地道にがんばってきた会社でも、日本環境設計というより大きな(効率的な)社会性の持つものによって淘汰されてしまうのです。リサイクル事業がなくなればある程度損失も被る、もしかしたら障害者は職を失うとかだってありうる。
(なんか腑に落ちないような・・・。)
駅前でゴミ拾いしているボランティアだって、そんなことせずにもっと楽チンで金のかからない方法があればそっちに流れる。
被災地のボランティアだって、個人のがんばりよりも企業のボランティアの方が喜ばれる(かもしれない)。個人がひとりやってくるよりも、企業がお金を出してくれたほうがありがたかったりする。(それは単純な力、の問題かしら?)
確かに結果で評価されるのならば、そのとおりだと思う。し、より(多くの)社会や人のためになる選択をするべきなのだと思う。それで職ややりがいを失う人がいたとしても・・・。
そう思うと、なんかただただの利潤を追求するビジネスも、いくら綺麗事をならべた社会性があると言われるビジネスも、大きな力はより大きな力に負ける、というような暴力性は変わらないのだなぁと思えてしまう。これは結構ショックなことだ。社会性のあるビジネスってそういう環境にあるものではない、とどこかで思っていたのでしょう。
そもそも社会性において競合、という概念はあまり発生し得ないのではないかと思っていたのかもしれません。だってみんなで良いことしているんだから勝ち負けもないでしょう、って。
乱暴に言えば、別にトレー回収だけが最適解ではない可能性だってあるし、障害者が働ける道もたくさんあるし、例えば、どうにかこうにか、その競合とも協力して何か新しいより良いものを創りだせる可能性だってあるはず。
確かにそれはそうなんだけど、そうすると、考えなくちゃいけないファクターは、ただただ社会に良いこと×持続性(儲けられる)という次元だけではなくなり、
社会に良いこと×持続性(儲けられる)×競争力となる。
CSRからCSVという単なる慈善活動だけから慈善活動で稼ごうという動きになってきたけど、それらも、もう社会性があるだけじゃ逆に認められない社会になってきているのかも・・・。と思うのでした。
いわんや、ただただ利潤を追求する会社なんてもうこの世に必要なくなっていくでしょうね。
全てを網羅しなきゃ、たちいかなくなるんじゃないでしょうか。大分高レベルだな・・・。
つまり
利潤の追求をしつつそれが唯一無二的な社会的な役割を果たし従業員も満足させる。
この4つくらいの側面を満たさなきゃいけなくなるんでしょうかね。
まぁ、常に物語の続きを描くような、絶えず進化はしていかなきゃいけないんでしょうけど。「それはそれで解決できるならOK、次の課題いこう!」とか、「どうせ企業でできちゃうんだったら、個人がより必要とされる(企業ができない)場所でボランティアしよう」、とかね。
それこそ、頭の使いようは無限通りにあると思いますけどさ・・・。
いろいろ書いてしまいましたが
いずれにせよ、社会のためになっていたことが、ただのコストになるという無情さ。
それが時代というものであり、革新ということなのでしょうか。
なんとなく思ってしまったのは、利潤の追求と社会的活動も本質的には変わらないのね。ってことでした。
利潤はお金に価値を見出して、社会的活動は課題解決に価値を見出す。
なんていうか、通貨単位が変わっただけ。
なんとなく今まで信じてた「良い」とされるものが"お金"から"社会性"へと変わっただけ。
おそらく、考えるべきは、それは人を幸せに(あるいは)豊かにするか、ということなのだと思う。
昔は(そして今も)お金は人を幸せにする、と考えられていたはずだ。だからこそお金のために働くし、お金によって社会は回っていった、し、そうだった時代を、みんながそう信じきっていた時代を誰が悪く言えるのでしょう。
そして、それが今は、社会的な活動が人を幸せにする、と考えられているただそれだけ。
果たして、本当にそいつは人を幸せに豊かにしてくれるのでしょうか。
ということをぽつりぽつりと考えてしまいました。というお話。