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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

打たれ弱い。

打たれ弱いということは
感性が敏感で、他の人よりも優れてるということなのだと思う。

感性を傷つけながら生きる生き方はしないほうがいいと思う。それがたとえやりたいこと、かっこいいと思えることだとしても。

やりたいことや、できたらいいことができない自分なんかを見てしまったら受け入れるより先に絶望が襲ってくるんじゃあないかと思う。


もちろん、受け入れてオッケー別のことやろう、とかすんなりできればいいと思うけど。

例えば就活だって、うまくできる人とできない人がいる。コツというモノがあるということもある。その人が(一般的な)就活というマーケットで傷つきながら生きることで誰が喜ぶのでしょう。


そんなこと、言ってたら、みんな就活しないよ!

本当にそうかなぁ、一定層は確実に就活を望むだろう。本当に望まない人は、本当に望まない覚悟も必要とされる。


恋愛に例えるのは好きじゃないけれど、
好きじゃない人と結婚しておきながら、毎日つまらない、とか土日が早くやってこいだとか。言うならばそんな状態。
なんでそんな誰が強いているわけでもないレールに自分から乗って、ぎゃあぎゃあ騒ぐ。


一回全てを受け入れよう。
本当にお金さえあれば働かなくていいのか。
今の自分を捨てる覚悟があるか。


やりたいことがないなんてことはないんですよ。みんなどっかで諦めている。それをやればいいんですよ。(堀江さん)

いいじゃんお金儲けるのが好きだって、誰にも迷惑かからない。(堀江さん)


打たれ弱くて結構。
打たれ弱い人だけができる、気づく、見える、ものはたくさんある。
世の中が打たれ強い人があふれているわけではない。

世の中の(あるようでない)基準に合わせようとして、つまらなくなっていく。
親は子を愛さなくちゃいけないか?子は親に逆らっちゃいけないか?お金はなくちゃ生きていけないか?友達は多いほうがいいか?勉強ができたら立派か?コミュケーション能力があれば有能か?仕事はプライベートよりも尊いか?楽しくなくちゃ人生じゃないか?


そういう何かを否定しても、素敵な答えを出す。
その答えがイノベーションとなっていくのでしょうね。


それは一種のアートのようなものである。


便器をアートだと言う。
大量生産された缶をアートだと言う。
無音をアートだと言う。



アート!!


本当に価値あるものとはいったいなんだ?