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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

死を考えるときに僕の考えること

今日は死んでもいいと思える、もっとも自殺に近い日だった。

そこに青酸カリがあったなら30%くらいの確率で僕はそれを含むくらい死にたかった。


マフラーを電車におき忘れてしまった。正確にいうと、電車におき忘れたかどうかも定かではない。朝家を出るときマフラーをしてた。朝電車を降りたらマフラーをしてなかった。
だから電車に残ってたんじゃないかと思う。取り外した記憶もない。

3回も忘れ物センターに連絡すれど、現れず。

気付いた瞬間に電車を追いかけて、会社を半休でもなんでも取れば良かった。絶対に追わなきゃだめだ。絶対に追うべきだった。今ではそう思う。


たかがマフラーというかもしれない。ていうか、たかがマフラーという人は好きじゃない。結果としてたかがマフラーだったとしてもそのマフラーがなんたるかなぞその人にしかわからないし、他人が決めることではないし、そうだったとしても慰めの言葉として全く機能してない。

自分がきちんといいなと思ってそれなりの対価を払い手に入れたものがこんな風に手元から離れるというのが悲しすぎた。

昔にスーツも置いてしまったことがあってやっぱり帰ってこなかった。
電車の置き忘れのものを集めれば立派なビジネスが生まれるんじゃないかと思えるほど。致命的だ。


そして死にたいと思った。
特にやり残したこともなく、この先生きていても何もない。何かあったとしてもそれを期待して生きていくほどではない。
合理的に考えたら、生きるより死んだほうがよっぽどいいと思った。
死ぬ理由に勝る生きていく理由がない。

ただ親はきっと悲しむ。そういうのがあってまだ自分は自殺を勧めないけれど。綺麗に死ぬ死に方があれば、きっと頭にちらつくこともあるだろう。今日死ななかった理由はそこに青酸カリがあったかなかったかの違いでしかないんじゃないだろうか。


自殺がいいか悪いかどうかなんて誰が決めるのだろう。その人にはその人なりの生き方があり、誰が、死ぬことを否定などできるのだろうか。生きる尊さを教えるなら死ぬことも同時に尊いこともあるのではないだろうか。
ていうかなんなら、人類は自殺で滅亡するとか考えられないだろうか。考えすぎて、未来を悲観して死ぬ。つらく生きているくらいならいっそ綺麗に楽に死ぬ。そういう選択肢もいつかきっと出てくるんじゃないだろうか。

誰かが悲しむだろうと言って、自分を殺すことさえも止められる。死ぬ人間に対してそんな負担をまだ強いる。誰が悲しもうがしったことではないし、誰かが悲しむことはそもそも問題ではない。だって誰かの悲しみが嫌だから生きてるわけではないから。


ていうか死ぬ人はもうどうでもいいんだ。いろんなことが。夢も希望も欲もない。


僕がもし、生きることが尊いだとかそっち側の人間であったとしても、死ぬことは否定はしない、でも目の前にいるのなら、話くらい聞かせて欲しいと言うだろう。どうせ死ぬのなら話をするくらいどうってことないだろう。話をした後にどうしても死ぬというなら止められない。でももしかしたら話をしたら何かが変わって、ちょっとまだ死ななくてもいいかもと思うかもしれない。それがどうであれ、まぁ一回話をしてみなよ、と。


なにもうまくいかない。うまくやろうとして、悉く失敗する。生きてる意味ある?生きることに意味は必要?死ぬ意味ある?死ぬことに意味は必要?


終わりなき旅を聴きながら、公園でひとり泣いてみる。そういえば久しぶりにしっかり泣いた。
難しく考え出すと結局全てが嫌になってそっとそっと逃げ出したくなる。

僕はこういうのをずっとずっと恐れてた。こういうことが自分に起きた時、きっと誰も止められないから。いや、止められはしないと思い込むだろうから。知った風なことを言うなとか、私はわからないけどとかいって逃げ道を作るな、とか僕は多分思う。結構最悪だ。例えば彼女でもそうだ。いや、とりわけ彼女が止められないであろうことが一番怖かった(別に彼女は特定の誰かを指す言葉ではなく、恋人という意味)。彼女でも止められずに、私がもし万が一死を選んだ時、彼女は自分を責めるだろう。そういうことがあっちゃならないと思った。そんなくらいなら一人で静かに死ぬよ。いろいろ考えすぎなんだけど。



やるだけのことはやるよ。
やるだけのことをやったら死のう。




「やるだけのこと」って、相当いっぱいあるからね。すぐ諦めて死ぬわけじゃないから、誤解なきよう。


挙げ句の果てに死にたいとか言い出すんでしょう。うまくいかない時の一発芸。どう。