handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

提供される人生を生きたいか。

私、時間があるときに2時間~くらいノートに向き合って、そこに思った(自問自答)ことでひたすら行を埋めていく作業をたまにするのですが、少しスッキリします。

何かと考えずに進んできちゃったなぁという割合が自分の中で増えた時に発動します笑。

いっかい整理したい!って思うんでしょうね。

この前は大学ノート2ページ半くらい埋めました。そこで出てきたことをもとに書きますね。

 

世の中は「伝える」ことがほとんどの場合に置いて肝だ。世の中の広告はもちろん、商品もどこが良いのか伝えなきゃいけない、仕事だって何をしたいのか、それがどれだけの採算がとれるのか、それに意味があるのか「伝え」なくてはいけない。インターネットもSNSもうんざりするほど世の中は「伝え」たがっている。もちろん、伝わってこないのはおそらく買われないし、賞賛もされないし、ブランド価値もあがらないだろう。

 

でも「伝わらない」ことは本当に無価値なのだろうか。

いつしか「伝わる」ことが至上命題となって、自分の中で内面的な何かを感じるとか、意味とかわからないけどこういうことやってみようとか、そういう部分ってどんどん減ってきているように感じる。

例えば、おもちゃだって、積み木だって、子供の対象年齢が決められ(それはターゲットのセグメントしているのか、事故が起こった際の企業の言い訳なのか、はたまた別の意味があるのか)買いやすいように、買われやすいようにされている。もしかしたら今では「◯歳児の~、空間認知能力が~」なんて宣伝文句が入ってくるかもしれない。使い方を決められ、遊び方を決められ、企業の商品開発部やマーケティング部の人が考えた枠の中に入るようになっている。こまごまと、こんなこともできる!あんなこともできる!なんて言われてしまうのだ。

そして多分、実際そういうものが選ばれ、売れるんだろう。なぜなら「わかりやすい」から、あ、そういう風になるのね、とわかりやすいから。何歳にはこれを与えればいいのね!とわかりやすいから。

それは前述したように、商品開発部やマーケティング部の頭の枠の中で私たちが生かされているに過ぎない。それってなんだか癪じゃありませんか。笑

 

わかりやすい、伝わりやすいものに触れて、私達はおそらく考えることが減った。わかりやすくて、伝わりやすくて、情報はなんでも提供してもらえて(その代わりにお金を払って)思考停止になった。何か問題があれば、提供者を責めればいい。

だから提供者もうんざりするほど注意書きを記す。

遊ぶことに説明書が必要か。危険察知能力は誰がもってなきゃいけないんだ。企業か親か子供か自分か。緊急時には誰を責める?

結局は自分がわかってなきゃいけないのに。

 

 

何も工夫せず、伝わる洗練のされていない野に咲く花は無価値ですか。

花屋にある花が価値ですか。

そもそも価値ってなんですか。

多分ここで言うのは資本主義における(経済)価値だ。

 

ただ野に咲く花でもいいじゃん!っていうのも結局「伝える」ことに他ならない。結局それは「伝えること」「伝わること」至上主義に変わりがなくなる。

 

それではこういうのではどうだろう、そのロジックから抜け出すには、無価値とは「(市場ではなく自分が)気付かない」ことだと仮定する。気付かない、知らないことに価値もくそもない。だとするならば、「自分が」野に咲く花に気づき、そこで「感じること」に価値があるのだ。

 

誰かに伝えたり、伝えられたり、写真をあげたりして満足するようなものではなく、言葉にも写真にもできない、伝えることもできないくらいの経験と感覚の気付きこそ、大切にするというのはどうだろうか。

 

自分が感じるその感覚と想像力と創造力にふつふつと幸せを感じればいい。

 

それが市場に評価されるか(つまり儲かるか)どうかはわからないけれど、市場に振り回されうんざりするくらいなら、誰にも伝えられないような、誰に伝えるでもないような感覚と経験を生きる上での誇りとして、支えとして、自分の中にしっかり持てるように。

 

誰がための人生だ。