handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

帰宅前につらつらと

書きます。

誰にもわからないやつですきっと。

もういい、と思われてる思ったといったその言葉は僕に「諦めてください」って言っているようだった。



はい。働き方

自分がその店の店長だったら、それが良いか悪いかの判断をうーんうーんと悩む前に、数万円、数千円でできることならまず自分のところでやってみてお客さんに判断仰ぎ、いろいろ回転させて残ったやつだけ採用するのに。

なぜ私は、いい企画が出ないーうーんうーんと提案する前から唸っているんでしょう。
そんなの一通り考えたら一度やってみるしかないじゃん。一度やってみることを説得するのにどんな長い道程を歩まなきゃいけないんでしょう。

私が例えば作り手で、例えばクライアントで、だったらすぐに「やる」「やらない」の判断をつけるのに。「判断をするための材料」や「ある結論を出すためのデータ」に果たしてそんなに意味があるのかって思えてきてしまう。

確かに判断をするためのデータって重要視するひともいるかもしれないけど、それがマーケティングとかいうひともいるかも知れないけれど。そうじゃなくて人の感情とか感覚とかって別に数の裏付けを取らなくても、ある程度感じることは一緒で、納得してもらえるか、納得できる言葉か、納得できる世界か、っていうところをひたすら突き詰めればいいんじゃないのって思う。

そりゃあ会社組織に所属する限り、そういう社内・社外的な話の交渉の上手さは必要なのかもしれないけど。そんなのものは試しでやってみりゃすぐわかるのに。

こういうことをやってるのが少し虚しい。

「広告は考え方を売る仕事だから」「その正しさや善悪は関係ない」って夢で言われたんだけど。

ほんとにさ、佐々木さんみたいに、広告に限らず、「今からやる仕事(広告)は世に出て良いものか、社会の役に立つものか」って一度考えるほうがいい。

無駄な時間が無駄である。