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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

いじめということ

今から僕が綴るのは単なるわたしの呟きでありひとりごとだ。



いじめというのは、なんともこう、子供の頃には全然わからないんだけど、すごい残虐というか、心に傷を負わせる。

それはおそらく、どちらにも。
いじめられたほうもいじめるほうも。

いじめる方がその残虐性に気づかず、それを秘めたまま大人になるならそいつは大人とは呼べない。多分。


私もきっと、小学生の頃に、いじめをしたってほど能動的ではないけれど、「無視をしたら一番楽じゃん」っていう考えが私にはあった。

今思えば、こんな悲しいことはない。
自分の子供がそんなこと考えてたら悲しいし、それが自分の過去にあったことを考えても悲しい。
相手の立場になって想像しても悲しいし、自分の子供がそうだったとしてもやはり悲しい。

小学生の頃の話だから、地元を通れば当時のみんなからよくは思われてなかった人の実家だったりを見かけることもよくある、そうするととても複雑な気持ちになったりする。

いじめられて命を落とす子のニュースを見ては、それがもしあの当時に起こっていたら私は今こんな風に生きてないのではないかと思う。
もっともっと心に深い闇を抱えながら、より強い罪悪感にも駆られながら、過ごすしかなかったと思う。

それは被害者が命を落としたか落としてないかの些細な(些細ではもちろんないけれど)違いでしかないのだ。

その子が強かったから、色んなことを我慢したから優しかったから亡くならなかっただけかもしれない。
そういう違いっていうのは本質的には何も違くなくて、ただただそうだったからそうだ、というだけであると思う。


ある意味で僕はその子に助けられている。

とても恥ずべきことだ。


大人になった今でもどこか居心地が悪い感情をどこかしらに持つよ。

忘れているかもしれないけど、どこか急にふとそんなことを思う。
そして取り戻せない、償えない感情が自分に降りかかる。


そういうのとは結局付き合わなきゃいけない。それはいつまで経っても。
子供たちに良いバトンを渡せるように自分の経験も昇華させないといけない。


今誰かをいじめているなら、すぐにやめてほしい。それは大人になって心に残る。君自身も傷つく。やめることは正しいことだ。やるべきことだ。やるべきことをやるのが紳士であり淑女だ。困っている誰かの力になったほうがよっぽどいい。人生は短くない、少しでも誠実に生きろ。仲間は増える。例え今はひとりでも。そんな風に生きられないというのなら僕は世界の方を恨む。そんな世界は間違っている。そんなこと言える立場ではないけれど、少しでも心が動くならそうして欲しい。大人の言うことを聞いて見て欲しい。

今誰かにいじめられているなら、いいか、人生は長い。今の苦しみは長くは続かない。一生続くなんてもちろんない。ある一定の環境のなかだけの話だ。君をいじめるやつなんかに好かれるな。やつらはなんもわかっちゃいない。でも君はできることならそいつを恨んじゃいけない。恨むくらいならやつらと一緒だ。君は誰よりも辛さを知ってる。人を助けられるやつは辛さを知ってるやつだ。いつか君は絶対に誰かを助ける。それは君の夫かもしれないし妻かもしれない母かもしれない父かもしれない弟かもしれない恋人かもしれない友達かもしれない大切な人かもしれない、いじめてきたそいつかもしれない。そういう時には笑って助けてやれ。そういうかっこいいことができるのは君しかいないのだ。辛いなら泣いてくれ。逃げてくれ。そういうのは逃げとは言わない。サッカーをしないイチローのことを誰かが罵ったか?あいつはサッカーできねぇんだだっせー!って馬鹿にしたか?
その場で何かができないから全てがダメだということはない。断じてない。
生きていて欲しい。どんなにかっこ悪く醜く卑屈でも、かっこよく死ぬよりも全然価値があるんだ。死ぬと言ったらただじゃあおかない。小説の主人公だったらどちらを選ぶと思う、それはもちろんいじめてるやつなんかよりも君だと思う。本を閉じないでくれ。


生きていく。

いろいろなことがあるよ。


悲しくなるようなこと言うな。
楽しく生きようよ。