handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

存在。ネクタイ。喪に服す。

 

 

本日祖母が亡くなりました。

 
幸か不幸か土日ということで少しばかり時間の余裕があり、
会社に行き月曜日からの引き継ぎ資料を作ってこれた。
 
おかげで4時間くらいは働いていたのですが。問題なく進むといい。
 
 
さて、祖母の家は長野と遠く、私は一番末っ子で、祖母といえどもあんまり思い出がないかもなぁというのが正直なところかもしれない。
よく兄に間違われたり、私の名前を覚えてくれているんだろうかとなかなかうまくコミュニケーションをとれなかった私の思い出。
もんぺ姿で農業をしていたのが私の祖母の元気な姿の最後の記憶かもしれない。
 
最近は寝たきりになりもう先は長くないかもしれないと
アナウンスされてはいたけれど、やはり物事は突然動くのだ。
 
やっぱりうまく、悲しいだとか、虚しいだとか、言えないけれどおそらく親(子)にしてみれば悲しいことなのだろう。
 
 
 
 
ということもあり、私は葬式用のネクタイを買いに出かけた。
冠婚葬祭用のネクタイは普通のネクタイとは別の場所にあるのだ。
 
ネクタイを選んでいると、ふーむ、とりあえず無地のにするか・・・と思いつつも
いや、この方が少しおしゃれだな・・・と微妙に縫い目?布の縫い柄?がわかるネクタイがあった。
そこで私は悩んだ。
 
ちょっと高いけどこっちにしようか・・・、でもそこにお金をかけるべきなのか・・・。
 
 
 
結果、感性に任せて、いいものを買ったほうが私も気持ち良いのだし。
と思って少し高い方を買った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後に気づいた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
お葬式のネクタイに、「とりあえず」もくそもないだろう。と。
 
 
 
 
そう考えると私がお世話になった人が亡くなったその式に私は「とりあえず」の服装で出ようとしていたことがとても恥ずかしくなった。
私が満足行く最低限のそして最高の服装を気にして出席するべきだ。と。
それがきっと敬意だと、思い直した。
 
だからどこにでもあるようなものではなくて、ちょっとばっかし高いかもしれないけど(とはいえそんなバカ高いわけではないが)きちんと自分の気に入ったものをめかしこんでいくべきなのだ。
 
服装が高いとかセンスが有るとかの話ではない。
きちんと自分の満足行くものを身につけて、自分の意志でその服を決め、そこにいることが敬意なのだ。
 
 
実はそれを選ぶときに、もしかしたら母の時もこれを身につけるかもしれない。と頭をよぎったのは事実だ。
 
やっぱりそう考えた時でも、私はわたしが納得して選んだ、ネクタイを身につけるべきなのだ。それが敬意なのだと思う。
 
 
結果やはり感性に任せて納得のいくものを買ってよかったと思えた。
 
 
 
そういう時、お金がどうこう事情がどうこう、で感情が流れていってしまうのはきっと悲しいことだと思う。
もしかしたらお金を払った自分を正当化させるための理論武装なのかもしれないけどでもそう思えたからこそ自分を肯定できるのだと思う。
お金だけじゃ自分を肯定するにはたぶんきっと足りない。
 
 
喪に服す。