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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

努力の過程

先日、「何者/朝井リョウ」を読んだ。

その感想。というか所感メモ。
ネタバレがあるかもしれない。

努力の過程を見せるなよ、
これからどうするだとか、誰かに会うだとか、こんなに頑張ってますアピール。
そういうのは事が終えてから、こうこうこうでしたっていうものであって、何もなしてないお前がいう事ではない。

名刺を配ることが痛いことだって、意味のない肩書きを並べることがかっこ悪いことだって、十分承知、かっこ悪いって知りながらやってる、そうでもしなきゃ自分をアピールできないから。自分の努力の実況中継をしなきゃ立ってられない。立ってられないんだよ。そんなことは知ってる、点数が低いことだって、でも、点数すらつかないひとよりよっぽどまし。影で笑ってるやつより全然まし。

相手の内定先を調べて、評判が悪かったら安心する。自分が何者かであるように、一歩引いた立場から俯瞰して物事を観察してる。観察している自分がカッコいいとでも思っている。何者にもなれないくせに、何者になんかなれないんだ。

選ばれなかった言葉を見ずにたまたま一致した140文字で人を判断する、1万字で表現したらきっと違う文字が並ぶだろう。140文字以上の裏にある背景を想像しろよ。

「こんな仲間に恵まれて最高!」「みんなありがとう!」などと人目につくところでわざわざ言う。それを何も知らない人が見た時にいかに冷めるか、想像しろよ。

なんで、就職すると決めた判断は軽くて、就職しないという判断が重いのだろう。どういう背景で決められた決断かなんてその人にしかわからないのにどうして重い軽いを決めつけるのだろう。想像力がないからか。

僕がスーパーで動いた点と点を結んだらそこに「ひとり暮らし」という星座が浮かんでくるだろう。
ここの表現が独特で素敵だった(笑)


んでも、何者か、になれると思うなぁ。みんななれる気がする。
誰かにとっては、確実に「何者か」なんだから、そこを小さく育てていけばきっと「何者か」にはなれると思う。
それが観察者ぶって分析者ぶってる学生の中の「何者か」ではなくて、社会にでて「何者か」になる方法だと思う。ちなみに僕もそんな大袈裟ではないけれど、ちょっとばっかしは何者かになりたいと思ってる、思っておるよ。

私もあれやる!これやる!とか言っている自分が好きで、よく宣言の時点で人に言っていたりしちゃうのだけど、(偉い人に会うとかの場合はできるだけやらしくない感じで表現しよう努めてる(笑))そういうのって結局長く続くことは少なくて、宣言してる自分が好きっていうか、頑張っているように見られる自分が好きというか、結局そういう次元を超えていないようにはどこかで感じていたんだよね。

だから、最近は(っていうのもなんか嫌なんだけど(笑)不思議なことに本を読む2週間前くらいからかなぁ。)人に伝えず、満足感も、敗北感も、くやしさも、自分の中できっちり育てようと思った。

表現することで満足せずに
表現することを逃げることとせずに。
分析することで満足せずに
分析することを逃げることとせずに。


何者に。