handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

歳を追うということ。

オリンピックを観ているとニュースだけで(リアルタイムであまり観れていないのだ)

泣きそうになる。

なんつーか、「わかる」(実際的にはわかるなんておこがましいですが)

ことが多くなってきたからだと想う。

おとなになって、歳をとって、涙もろくなるのは

いろんなことが「わかる」ようになったからだと想う。

単純に、疲労感や体力的なきつさもそうだし、プレッシャーもそうだし、家族とその周りの人間関係もそうだし

応援にくる人もそうだし、現地にいる自国の旗を振ってくれる人もそうだし、同種目内の仲間もそうだし、

寝食共にした仲間もそうだし、こうしてTVを観させてもらってる僕もそうだ、いろいろな関係・感覚が「わかる」ようになる。

そういう、すべてがぎゅっと詰まった形を一瞬にして見せられるからだと想う。

そしてその一瞬の選手が嬉しそうに飛び跳ねる様子だったり、

抱きあう様子だったり、拳を突き上げるガッツポーズだったり、時には涙したり、

その表現に僕はじーんときてしまう。

やっぱり子供の時は、あー、すごいね、すごいね!で終わるのだけど

やっぱり歳を追うと、その舞台はいろんなものの積み重ねの上にあるものだということが

想像(妄想含む)できてしまって、涙腺が緩くなる。

何考えてたんだろう?とか考える。

同い年のような人たちも頑張る中で、単純なヒーローには見えなくなってきた。

(単純なヒーローなんてどこにもいないのだけど)

泥くさく、プレッシャーのなかで、ちょっとずつちょっとずつ、じりじりと歩み寄って

それが実現されているんだな。と。

それが率直な感想。

でも、そんなもの見せない舞台で輝くヒーローでもある。

例えば、子供たちにとっては。

私もヒーローじゃないけど、ヒーローじゃなくていいんだ。

じりじりと近づけるようにがんばる。

ここぞってときにヒーロー面してやるんだ(笑)。

ヒーローの道も一歩から。