いうても日本一の小説だったのね・・・。
と、旅行中に成田空港で買ったノルウェイの森を読んでいた。
最近小説からは遠ざかっていて、いや本自体から遠ざかっていて、みんな同じようなこというんじゃねーよー。
って思ってた。
でもね、小説の世界は久しぶりに良いものだなぁと思った。
僕の頭がうまく物事を考えられなくて、上手く表現ができないのは小説が足りていないからだと気づいた気がした。
小説が何がいいかって
気持ちが感情が豊かになることなのだ。
自分の知らなかった気持ちを知ることだ
もしくは、自分がどうにもできない感情に対して手がかりをもらうことだ
どう表現していいかわからないことへ文字という表現手段という道具を貸してもらえることだ。
どうしていいかわからないことに結び付けて物語の人はこう生きている、だからこういう考えもあるんだなと安心することだ。
僕自身、ちょうどよくわからない立場に立っていてノルウェイの森のようなぐちゃぐちゃした世界に人物たちはどう向かっていくのか、本当に道標のようになっていた気がする。
もちろんそこにかいてあることは同じで、読む人が違うからこそ道標になる場所もその意味も違う。
そしてこの人のようでありたい、とか、あぁこういう人好きだなぁと確認するのだ。
こんな表現するんだー、んー、これはイヤかもと確認するのだ。
作中の誰かの言葉に支えられ、やっぱりそうかと思える。
ともかく普通自分の想像でしか物事は考えられない。
だけど登場人物のある人の思考の中身を覗いて、考えられる手段をくれるのが小説だ。
中でもノルウェイの森を今のタイミングで読めてなんか清々しく思えた。
でも、もっと早く出会っていて、もっと早く読んでいたらちょっと変わっていたのではないかと思う。
ワタナベくんの素直でちょっと変わっているところ、強く生きていこうという姿勢とか自己嫌悪するところとか。永沢さん同じく、基本的に人に興味はなくて、自分だけで解決してしまうところとか(最終的に緑が必要と気づくのだけど)、緑の「おあいこ」に対して意味がわからなかったりしてるとことか、自分に似ているなーとか思ったり、
小林緑が可愛くて、芯がしっかりあって、ユーモアがあって、かつ優しいけどシモい(ちょっといきすぎてるがw)ところとか。
ワタナベに対する手紙「・・・私はただただ淋しいのです。だってあなたは私にいろいろと親切にしてくれたのに私があなたにしてあげられることは何もないみたいだからです。あなたはいつも自分の世界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもちょっと目を上げるだけで、またすぐもとに戻ってしまうみたいです」
こんな風に自分を見てくれて、それを言ってくれて、何かをしてあげたいっていう人なんて(ほとんど)いません。だからこそ言われたいよね、すごく(笑)
これを見てあぁ、この子は、優しい子、気づける子だと思いました。
誰かが考えた産物だよ、といわれればそうかもしれません。
でもその誰かが考えた産物にとても愛がある。
それをこの文章で表していく村上春樹さんはやはりすごいんだなと感じました。
そして、私はノルウェイの森の力を借りるように自分の中のよくわからない感情の答えを探したり
作中のワタナベくんのように素直で自分の気持ちを表現できるしっかりした(時に面白い)人になりたいと思った。
だから、素直に全てを言ってしまいたいと思った。
できればなにか耳障りの良いような言葉に変えながら、そこに愛とか優しさとかを含ませられるように。
そして作中、レイコさんの言葉を借りるならば(小説は借りるということができる。)
そんな風に悩むのはやめなさい。放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言うようですが、あなたはそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。
・・・・・・中略・・・・
しかし結局のところ何が良かったなんて誰にわかるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。
これがなんか心に響いた。
そしてなにか落ち込むようなこととか悲しいこととかあったときに
あぁ・・・と何もできずに旅にでて無気力になってその日だけを生きるとかというのも、あってもいいものなんじゃないかと思わせてくれるのです。もちろん例えでいっているのであって、そんなことが全員に起こったら日本中うろうろしている人が増えちゃう気がします。(笑)
こういうようなことを思ったわ。
久しぶりにすごく楽しい読書だった。
読み終えて頭にはビートルズのノルウェイの森がまんまと流れるのでした。
もっと素直に生きていいのだ。