下駄合宿の帰りに綴ってみる。
自分がしたことについて。
これは、どこに基準を置くかで変わるし非常に曖昧なんだけどね。
他人の行動を「その人が意識的に意図的にやったものなのか、自然に無意識的にやったものなのか」判断することは難しい。
「無意識的に意図的に」やることもあるだろう。
広告みたいなものなんだろうか。
良いものは「良い」と感じさせない。
よく創られたものは「創られた」と感じない。
すげー逆説的だな。
でもすげー的を得てる気がする。
良いものは良いと気付くという反論はあるだろう。
良いと気付く、すごいと気付くこと、それは消費者が消費者目線から一歩抜け出したからではないか。
例えば、映画監督は他人の創った映画を見ながら良いと思ったら→「ここのアングル」とか「話のこういった展開」だから良いんだなーと気付く。
その分野に携わったことのある人なら良さとかすごさはより身近になって、よりその凄さを感じられる。気付く。
それは生産者の一部として。
只の消費者はそこまで感じない。感じることができない。
広告も他人が作ってるけど、消費者側がそれについて「良い出来だな~」とは思わない。ましてや、どんなこと意図して作ったのかなんてまで思いを馳せる人は少ないだろう。
広告はそれを「無意識的に理解させる」そんな感じ。
(博報堂みたいだな(笑))
それは個人もそうで、俺が意識的にやったことでも周りの意識には全くのぼらない、そんなことがある。
逆も然り。
だから、評価されてない!って思ったり、性格が違うように受け取られたりする。
まぁ、それを解決するのはやったことを伝えること(評価が出るならなおさら、いや評価の出るまでやるのも良い、認められるまで。)
だと思うが、まぁいいとして。
じゃ、自分の意識的やら無意識的を紐解きたいと思う。
無意識を考えた方が良さそうだ。
ほとんど自分の行動には意味がある。多分、他人のためにある。
満足して欲しいとか、楽しんで欲しいとか、自分を出して欲しいとか、さらで付き合いたいとか、仲良くなりたいとか、場を盛り上げたいとか。
ここで誰か出れば他の人が出やすくなるだろうに……、誰も出ないのならその誰かになろう。そういう考えなんだな。
逆に言うと、なんでそれがわからないかなー、って感じるのも多いから。
(しかし、相手も相手の考えで動いているのだが)
それを言うならば、完全に空気を読んでいるということ。
もちろんいきなりとかいつでもできるようなもんじゃないけどさ。
んー、それに気づいて欲しかったら、やっぱり伝えるしかないんだよなぁ。
自分で何言ってるかさっぱりになってきた……(笑)
つまり…
他人はどういう行動基準を持ってるのかにも興味を持とう。
自分の行動基準を他人に伝えてあげよう。(つまり、自分のことわかってよ!って言いたいだけなのかもしれない)
それ以外に評価を見つけることは難しい。
いくら上手く何かを組織して運営するとか映像つくるとか作品を残すとかしても、観客から仲間から拍手はもらえてもそれが何から拍手しているのかは教えてくれない。
だから聞かなきゃいけない。意図したことの反応も含めて。
そこまでいっての評価だな。そんなことみんな考えないだろうけど。
行動だけが他人を理解できる糸口。
今度話し合おうっと。