handmade

日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

なんにも得がないとしたら

昔は好きなことややりたいことを探すために

もしなんでもできるならどんなことやりたい??とか夢想して、あれやこれや考えたものだけど。

 

もはや、大事なのはそれができたとして

何も得もしないし、誰も見てないし、女の子も見てくれないし、有名にもならないし、お金も入らないし、名誉にもならないし、なんにも手に入らないとしたら、何やりたい?

 

って聞くことの方が大事な気がしてきた。

 

それをうーんと考えてみたら

 

まぁ踊りはするだろうし、ギターは弾くだろうと思った。株は何も得られないんじゃ難しいよなぁ…。

 

人との交流はもつかな。なんにも得られない馬鹿話ってそういう意味では最強だけどね。

 

マルティン・ルター

「それでもリンゴの木を植える」

 

てね、この「それでも」に全てが詰まってるきがしませんか。

 

がんばった

この休日はがんばった…気がする。

 

病院に行った

髪を切った

走った

会議の場所を押さえた

イベント2人にオファーした

音楽を探した

資産を計算し直した

野音を聞いた

ギターを弾いた

オンラインで相談会議をした

全体をとりまとめる発信した

合宿先とやりとりした

レンタカーを手配した

バッグを見た

持っている服を絵に描いて整理した

考えごとをした(30分だけですが)

1冊本を読み終えた

サンダルを買った

服を試着した(買わなかった)

靴を磨いた

オレンジページを買った

カードの整理をした

 

…超がんばった…。笑。

 

星野源さんのアイデア

カラオケで歌っていたら星野源さん(以下源さん)のアイデアの歌詞にえらく感銘を受けてしまったので書く。

 

今まで源さんの歌詞についてあんまり考えたことなかったのですが。

とりあえず器用な人なんだな〜という印象だった。しかしアイデアの歌詞を見てから器用というのもそうなんだけど、それと同じくらいに曲にメッセージを込めている(わかりやすい言葉を使えば熱い)人なのだと感じました。

 

予め言うけど、これは私の勝手な解釈なので、この歌詞はこうだよ、と言われても全部知らんがな、です。

 

しかしながら曲とかの解釈を勝手にさせてしまう=名作と思っている。(宮崎駿しかり浦沢直樹しかり)

 

 

<アイデア/星野源>

まずこの曲自体が人生を音楽に見立てた曲なのですよね。

 

似たような日常を音楽に例える訳です。

 

おはよう世の中(すべての人に向けて)

(生活するにおいて必ず目にする)湯気には生活のメロディ

 

生活音が全てモノラルのメロディというのですが、モノラルのメロディというのは、ステレオに対してだと思うので片方なんですよね。何かが欠けているんです。それは生活音に対しての実際の生活なのかもしれないし、それを楽しむ心なのかもしれないし、はたまた別の音なのかもしれない、とにかくモノラルという何かが不揃いな感覚。

 

涙こぼれる音は咲いた花がはじく雨音

ということで、前を受けたとするとモノラルというのは音に対する解釈なのかもしれません。

ざっくりいって良い面悪い面みたいなのがあって音はステレオになる的な。そうして哀しみから青空を導くわけです。

 

つづく日々の道の先を塞ぐ影

その日常を困難にさせる待ち受ける何かですし、あるいは病気ですし、あるいは仕事ですし、あるいは事故のようなものに対して、アイデア雨に唄えば的な発想でもって全て越えて響いてほしいという話。

 

この全て越えて響け、というのが個人的にめちゃ大事で。

そんな雨に歌えば、アイデアひとつで物事が明るくなったりなんかしないんですよ。それを分かった上で、「全て」越えてほしいという源さんの想いが詰まってるんだなぁと思うのです。

で、響け、と表現しているのはややポジティブな意味を含めながら悪い意味も良い意味も混ざりあってハーモニーとして成り立ってて欲しいということなんだなと私は受け取りました。

 

これがサビなので曲中は源さんのこの想いが一貫しています。全て越えて響け。それがアイデア!などと野暮なことは言わない。どれだけどんな側面を見たってプラスに思えないことはたくさんあるよ。でも全て越えて響いてほしいのですよ。

 

んで2番の

おはよう真夜中

から対象が世の中から真夜中になっているわけです。

世の中と真夜中(韻を踏みながら)の対比はなんですか。暗さです。

 

1番はどちらかというと一般的な人に向けて人生という音楽の話をしていて、2番はそれより暗い、もしかしたら辛い、もしかしたら苦しい、もしかしたらもがいている人に向けて書いたのかもと思いました。曲の雰囲気も変わります。

 

虚しさとのダンスフロア

笑顔の裏側の景色

一人で泣く声

喉の下の叫び声

すべては笑われる景色

 

笑われるんですよ。わかりますか。そういう現実をまず一回受け入れる。このどん底

 

からのリズムがアップテンポになりつつの

「生きてただ生きていて」ですよ。

死のうと思ってる人に歌ってるじゃないですか。

辛くて辛くてでも笑われてる、そんな人に対してどん底でも「ただ生きて」から入るわけです。

 

んでそれを踏まれつぶれた花に例えるのです。

あなたは踏まれ潰れているけど花だぞ。

にこやかに笑え、中指を立てろ。(立てろとまではいってません)笑わせたままにするな、そんな奴らに負けるな。というのが彼らしく伝わってきます。

 

サビは同じくです。

これでもうひとつ下の階層で苦しんでいる人にも全て越えて響いてほしいと祈ります。

 

んで、

闇の中から歌が聞こえた

あなたの胸から刻む鼓動は一つの歌だ

胸に手を置けばそこで鳴ってる

 

というのは、今まで生活音とか雨の音、泣く声とかとか全てをハーモニーにしてという話をしたのですが、

 

ここで、闇の中というのはやはりどん底とかを指すかと思うのですが、ここで1番近い自分の胸の鼓動の音の話をするわけです。

これは続くんです。生きている限り。

今までいっていたつづく日々とは心臓の音がつづく日々なのかもしれない、となるわけです。

もちろんそれは日常かもしれないし非日常かもしれない、でもとにかく(心臓が)つづく日々なのです。

 

この心臓音も一つの音だとした時に

これと一緒にハーモニーを奏でてほしいわけです。響いてほしい訳です。つまり生きてほしい訳です。君と。ここで君がでます。

別に恋人に限った話ではないと思いますが、この人生という音楽を奏でる人(君)と音が止まるまで(人生が終わるまで)歌いたいわけです。

 

んでもいっかいサビ

大事なことは3回くらい言います。

書きながら気づきましたが3回繰り返しながら

対象がちょっとずつ違うんですね。

大衆向け、もいっこ下層の人、君、それぞれに言ってたわけです。

 

塞ぐ影にアイデア

(例えば)雨の音で歌を歌うような!

全て越えて響いてほしい訳です。

 

んでそれぞれがつづく日々(心臓がつづく日々、もしくは続いていく日常)を奏でる人(毎日生きてる人、心臓が動いている人)へ

つまり全部をまるっとオール包み込んで全対象に言う訳です。

 

すべて越えて響け!!!!

 

こんな小気味良い音楽に、源さんはなんてロジックと思いを詰めた歌詞を書くのでしょう。

 

と私はカラオケで歌詞を見ながら目が潤んでしまいましたとさ。

 

 

んなことぁわかってる、

でもすべて越えて響いてほしいな〜という源さんの想い受け取った〜。

 

音楽とはかくも素晴らしい。

 

そして源さんのメロディ、編成もさることながらこの実力を知った時、さらっとめちゃめちゃ熱いことをぶつけてくる姿勢に

「かっこいいいいいいいいいい!」とそのかっこよさを初めて認識できたのでした。

 

星野源、あっぱれ。

 

 

suitable for me

色々試着した。

歳のせいなのか、最近服を買うという行為を行っていないからか、モノを見ただけでは自分に合っているかどうか判断があまりつかなくなった。

 

第一、これはどのタイミングで着ていく服なのだろう…?とか。なんとまぁそういうイメージが貧困になった、のかもしれぬし、逆に言えば昔と比べてこれ着たい!とかいうよりもTPO優先で考えるようになったのかもしれない。

 

ともかくも、原宿のグラニフに行き(あそこにいくと他のグラニフに行く必要がないように感じる)はめちゃ種類が多いTシャツを扱い、どれだどれだーと選んでいる行為はめちゃ楽しいのですが、いざ買う段階となると、果たしてこれ自分に合ってるかな?

みたいので選ぶのに小一時間がかかった。

 

んでこれが通用する歳じゃないよなーとか

これはいつ着ていくんだろう…とか

寝間着だったら着たいけどねーみたいなものが結局多くなって、結局1枚しか買えなかった…。似合う自分でないことに一抹の悲しさ…笑。

 

 

まぁ歳もあるかもしれないし、嗜好もあるかもしれないし、そういう意味では自分が変わりつつあるのかもしれない。

変わりつつある自分がどういう嗜好で、いや、嗜好は抜きとしてもどういうものが似合うのか、まだいまいち捕らえられていない。

 

好きなブランドとか再設定しなきゃいけない時期なんですかね。

それにはまた(吟味する)時間がかかりそうだ。

 

 

いろいろ変わりつつあるのかもしれない。

 

 

人間が暴走

以前にひろゆき氏が指摘してたけど、AIの暴走よりもAIによる人間の暴走はすでに起こってて、「過激なことをやる動画で視聴者数や広告収入が得られるシステムがあるから」人間が不適切動画をあげるというのがそれ。踊らされてんな〜。もしAIがその数字をちょろまかしてたら大分AIに踊らされてるよね。

 

んで、テレビもワイドショーとかがどうでもいい話をめちゃつまらなく流しているのは、視聴率っていうシステムのせいだよなと。見ている人が本当にどう感じているかという考えなしに数字を追った結果、賛否両論、扇動するコンテンツばかり流す。テレビでバカにしているユーチューバーと変わりなく。

 

 

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」


この文脈ではないかもしれないけど、春樹さんがスピーチしたこの言葉を思い出す。

この一文が有名だけれど、この言葉には続きがあって、壁とはつまりなにかを話している。

 

 

「この壁には名前があります。それは“システム”というのです。“システム”は私たちを守ってくれるものですが、しかし時にそれ自身が意思を持ち、私たちを殺し始め、また他者を殺さしめるのです。冷たく、効率的に、システマティックに。」


同じことだと思った。

卵の側に立ちたいものです。

 

 

 

余談:どうでもいいけど、この140文字の起承転結具合すごくない…?笑

語る視点

人が人のことを形容するって本当に尊い

 


あなたの良いところはこういう所です。

こういうところが好きです。

最初はこう感じてました。

あなたと会ってこうなりました。

あなたは今まで会った人の中で1番こんな人です。

 


語る人の視点と関係性が自然に文章に含まれているから唯一無二でほんとに尊い

 

丁寧に人の輪郭を描こうとしてくれている人好きである。

 

でその輪郭を頼りにしようとすることもある。

 

自画像を描くとき他人が描いた自分の輪郭を頼りに自分もまた輪郭を描く。

 

そんな作業だ。

表現

自己表現論よろしくあんなにそれぞれがきちんと表現できるかつ熱を帯びたものはそうそう見れないよなぁ。表現大事やなぁと深く反省。かつそれを目の前で見ることができて本当に良かった。良いとか好きとかが現象として目の前で認識できるのは人生単位レベルでめちゃ良いことだ。

 

表現をきちんとしようと思った。

 

環境がある限り、表現を。