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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

取。シンパ消費。シンパの話。

取、という文字の成立ち聞いたことあります?

 

「取る」っていう字は敵を倒した証明として敵の耳を切り取ってた話からきてるってのを

 

私は聞いたことがあります。

小学校の先生から。

 

 

今聞くと、「野蛮かよ!」って言いたくなりますが、これ昔は別に野蛮とか思われてなかった(からそれが成り立った)ということなのかなと思ったのです。

 

もちろん「野蛮だ」とか「気持ち悪い」とか「非人道的だ」とか思う人もいたでしょう。

 

だからこそその声が大きくなりそんな風習がなくなったのでしょう。

 

つまるところ、相手の嫌なことはしちゃいけないよみたいな感覚って伝染するのか、そもそもみんな本能的にそういうこと「いやだな」って思う感覚って備わってると思うんす。

 

 

んで、なぜそれが無くなってきたかという流れを汲むと、

共感できる感覚が敏感になってきたからだと思うのです。

 

んな、インターネットの情報伝達とかシェアとかそんなことの前に、目の前で起きていることの、快感、不快感みたいなものに対してより敏感になってきたという流れだと思うのです。

 

 

だからなんでもシェアしたがる感覚(それを楽しむ)っていうのはそういう流れの延長線上にあると思うのです。

 

 

つまり、シンパシーの話なのです。

コト消費とか言われてますけど、多分違います。

シンパシーで消費している、シンパ消費です。

 

インスタ映えするのがいいんじゃないんです。

 

これ良いと思われるだろうな(シンパシー感じてもらえるかも)、と(参加者)が思うことが大事なのです。

 

それは単純に映える映えないの話ではなく、

共感できるかできないかの話なのです。

共感と同調は別ですが。

 

だからリアルタイムに寄ってきたのです。インスタグラムのストーリーも。ユーチューバーのゲーム実況も何が楽しいのか言語化できてなかった。

その熱量や感覚が伝わるのはその時(今)が最大値だから。

 

それが今の流れです多分。

 

だから企画やクリエイティブや戦略もそっちに寄せた方が良いでしょうね。

 

 

2018夏阿波

アホーなことから、真面目なことまで話せる価値観のある人と過ごせる環境が何物にも代え難い。

 

スキルとか、キャリアとか、そーんなことではなく、まず人生があって、その人生を私にとって間違いなく豊かにしてくれる夏でした。

 

去年は株式投資に専念してたため辞退をしましたが、ひとつあけて今年は参加。

 

去年から今年の働くところにかけては、自分の価値観とかマイノリティさが徐々にわかってきて、そういうものを共有というか、理解してもらえる?解放できる?解放しても嫌味言われない?場があるというのが本当に救われる思い。

 

 

前回までは、踊りとかそういうところに価値を感じて、感じるべきだと思っていて例えば、踊ることによってハイになれるかとか踊りを通じたコミュニケーションも含め、魅力を感じられるかということなのですが。

 

今回はそれもありつつ、それ以上に人を含めた環境に価値を感じていた。これは3回目だから人と会うのにも慣れたということもあるし、2回目以上に会う人には安定感を感じ、人と一通り話せた後からより楽しめるようになったって感じ。

 

で多分仕事に引っ張られるとこういうところ死ぬとふと思う。

 

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もちろん体力落ちてたし、良い踊りとは言えないのですが、踊り以外にも価値がある。

踊り(体力)もちゃんとやる。

 

 

 

夢、とか、これだとか。

夢なんてねぇですが、

 

早稲田に入った時とか

ギター手にした時とか

注文が約定した時とか

南中ソーラン踊った時とか

 

「これだ!」みたいな感覚は存在している。そこらへんがきっと夢。

 

これらを大事にしつつ、新しい「これだ!」に出会えるように。南中ソーランもっと大事にしたら良かった笑。

 

これだ!をもっともっと大事にすべきなのよ。

 

 

海外の人とコミュニケーション取りたい。

逃げるは恥だが

そりゃ元々希望のポジションではないことはそうなのだ。

 

理想的なものを頭で思い描けること、固執できることを仕事にするか、割り切るかどっちかだと。で、固執できると思ったことに全然熱意がわかないパターンもあります。

 

オンとオフすごい分かれるのは働いて分かったんだよなー。俺が好んでやる資料作りとか勉強とかならいいのだが…。甘えなんですかそれ。

 

甘えてたらなんだってんですか。

 

恥を忍んで思うに。興味あることでも一定の距離が必要なのか、そもそも興味がそんなに無いのか、どちらにせよ続けられてたのは、ぬるかったからだと思うなぁ。去年のこと続けられたのは興味もあって好きだったから。今の業界の中枢その高濃度に対して、あぁそんな興味が無いな…って気になる…カルピス

 

カルピスみたいに濃度的な意味でも関われる興味関心のポジションというか距離の適切な取り方もあるのかな〜的な話をまとめてカルピス4文字に込めて。

 

 

 

もし私が私から相談受けたら、

とりあえず今週行けば来週お盆だから、逃げればいいからって言う。

 

逃げる。

メモ

解決可能に思えるちょっとの課題を(できれば人と)解決すること(キャリア的に言えばその解決方法が広告的手段、見方を変えること、考えが変わること、気づくこと、知ること、によってというところを魅力に感じている。あ、広告手段的なよさこいとかできないかな(独り言))。単純に遠くに行くこと(できれば人と)。それが私の1年の数え方だと思う。もちろん大切な人ができたら優先順位は変わるかもしれない。その人と過ごすことが無上の喜びになるかもしれない。(それはそれでいいでしょ笑。)

 半年前くらいに書いたもの。

 

解決可能に思えるちょっとの課題を(できれば人と)解決すること。

単純に遠くに行くこと(できれば人と)。

大切な人ができたら優先順位は変わるかもしれない。

 

これだけ。

 

12月から働き始めるまでの3ヶ月、いろんなことを考えてちょっとずつ動いて確かに記憶があって、カフェで考え事してるときは幸せを感じていたのだけれど

 

3月から働き始め、追われることはあれど何をやったのか記憶があまりない。プレッシャーとか朝起きなきゃいけないとか、満員電車とかそういう負の記憶はある・・・。

私は1年、すくなくともこの半年、数えられているのだろうか。

 

プライベートで数えようとすれば

9月ににいがたに行くつもりだけど、それで数えられるんだろうか。

 

 

今で言えば、確かに広告的手法に近しいところだけれど、ちょっとの課題ではない。大きな課題だ笑。名前も知られているto C のWEBコミュニケーションなんて影響力が大きすぎてちょっと扱いづらいというところがある。どうしたって事故る。何度確認しても事故るもんは事故る。事故ってもそれが成功したときの、喜びとくらべれば・・・という人はいるかも知れないが、だったら最初からそんな労力使いたくなく、そういう労力はプライベートで十分だと感じる。

 

それが上か下かという問題ではなく、例えば下町会社のコミュニケーションなら自分の扱え得るサイズとしてそれくらいがいいかなぁと思う。ちこちこ、感触を確かめながら。

 

転職活動のときも、数字を追うことには適していなく、自分で手触りを確かめながら作っていく仕事の方がいいと面接先の会社に言われた。まぁ確かにそうだと思う笑。

ゆっくりじっくり派・数字目標をもっていくことになじまなそう。

自分で考えながら手触り感のあるものを作っていくという仕事がマッチしていそう

→自分で考えながら手触り感のあるものを作っていくという仕事ってなんじゃろう笑

環境のことでもあるんだろう。

 

それを思うと規模とか環境とか現在、合ってないと思う。それはスピード感でもあるだろう。こういうところで生きたいわけじゃないんだよなぁ。

受注したら喜ぶ人いるけど、受注してもあんまり嬉しい気持ちになったことないんだよなぁ。役に立ったかどうかとか、自分のした行動がまるでそれがそうであるように機能したときの方が嬉しい。

 

道路で邪魔になっていたものを誰もみてないとき、横に避けておいて、みんなが当たり前のように通ってる、ような仕事がいいんだよなーと思う。例えがわかりづらくてすまぬ。

 

 それが最終的にどうなりたいかというと謎である。

そうなってればいいのだから。そういう風に過ごせればいいのだから。

何かのゴールとして達成したいものがあるわけではないような・・・。

 

それってどういう仕事かしら?

というかそれって”知らせる”と対極じゃないかしら?笑

それがそうであるかのようにあって欲しい、知られるくらいの価値であることが重要であると考えている。だから知らしめることにおいてそこまで価値を感じていない。

 

たとえばそう思ったきっかけとして、雑誌で歯医者を遊園地にしたら子供も怖がらなくなった。ということがあったのだけど、その課題の解決の仕方が鮮やかというかクリエイティブで好きなのであって、それを知らしめたいとか、それでお客さんを増やしたいとか(確かに増やす目的なんだけど)、そういうことじゃないと思うのだ。

 

それに向き合った人がそれに対して、居心地の良さやなにか良い影響があったらいいなということだけなんだよなぁ・・・。それを知らせるのはまた別の話。

 

ちこちこ細やかに整備していきたい的な・・・。

 

いちいちいらんこと考えてしまうからそういう自分が生きやすいところに配置してあげないと。

まつりさんを想う

 

普通に寝不足とか疲れって酒に酔ってるくらい多分注意力なくて、判断力なくなって、不注意で、事故で、自分で、死ぬ。

 

つい赤信号を渡って、つい脇見をして、ついぼーっとして、つい後方確認をしなくて。

 

彼女を想う。

 

彼女の墓参りに行きたいとふと想う。

キャパは気持ち

多分処理する方法、手足の動かし方だけではなく、それは考え方のレベルから変えれば処理できることは増えると思う。

 

 

んでそれを身につけるのは、「身につけたい」と思うかどうかだと思う。

 

要するに変なこと言うが、キャパは気持ちで広げられる、とは思う。

 

 

だから、気持ち新たに頑張れ!

 

 

などとは言わない。逆である。

 

そう思えないのなら、そこに対するモチベーションがないのだから、時間を注がなくていいと思う。

 

 

ポーランド戦

結果かプロセスかいう話じゃなくて、bestを良しとするかbetterで良しとするかだと思いますけど。

 

白熱して必死でスーパープレーで勝てるのが一番。それはみんなわかってる。

 

 

ではそれ以外に価値はないのか。

次点はどこだ。

 

betterで許せるか。

betterになると価値観のズレが生じるね。

 

白熱か

必死か

スーパープレイか

勝つことか

 

比重の問題である。

 

こういう比重は人それぞれに思ったよりマジで結構違うからやっかいで

賛否両論でツイッターが盛り上がっちゃったりするのだ。