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日記ですな。私が生きた証。 私が自ら作り上げていく人生。 第3幕。

タイトルなし

人生にはどうにもならないことがある。どうにもならない時に涙する。どうにもならない時にも彼はとてもとてもとても強かった。諦めなかった。勇敢だった。そしていつも彼だった。

あの世に友人ができました。

 

人の生き死にを取り上げて、こう生きようだとかどれだけ(自分が)悲しいかとか、"消費"することは避けたかった。とはいえ、こうそれに対して何かを発信すること自体、消費であり、行きすぎた行為なようにも思える。

でもこの物事を溜め込んで、表に出さず何事もなかったかのように、「あー今日は良い天気」なんて能天気に言えただろうか。言えない。だから自分の中で答えなきゃいけないのだと思った。

そして、答えなきゃいけないときの自分の答えは悩んだ末、あれだった。

 

だからといってこれが決着したかというとまた別だ。一生影響を与え続ける。

 

有名人の訃報でもそうなのだけど、中村勘三郎さんやら植木等さんやらいかりや長介さんやらが亡くなって、もしかしたら意外とあの世でもエンターテイメントやらなにやら楽しんでる世界があるのではないかとちょっと思う。

 

あっちでも退屈しなかったらいいな。

そう遠くないうちに私も行くでしょうけど、単なる恐怖だけではなく、勇敢な彼にまた会えると思って、私は私でこの世の土産話でも持っていって、また話そう。あの世わっしょいだな。

雑感。

めちゃイケを見て雑感。

見てない方には伝わらないかもしれないですが笑。


"仕事だから"じゃなく、自分が選んだと思ってやっていることなら地面でも這いつくばる。自分が自らが選んだと思えないことならコース変更したほうがいいと思うやっぱり。それは知識や経験によっても変わりゆくものだと思うけど。

 

 

 

プロがこれだけ集まって本気だすと凄い。

わかった!わかった!と言うのはこれで100回目くらい(わかってない

相変わらず史上最低を更新しまくっています。

ひとつずつ補完してきて、あ〜なるほどこういうことか〜ってわかってきたと思ったのですが、そうした時にどこかひとつ見落としていてそれによって大打撃をくらうという…。(コツコツドカン)

 

というわけで、株式取引で過ごしていますが、余力的にもあと2ヶ月ほどが限度なのではないかと思っています。

 

単純に損をして悔しいとか悲しいとかそういう感情よりも、自分が「わかってない」ことに対して悔しさや悲しさが出てきますね。

今日の損は理解できたので今後にまた活かすしかないのですが。

そういうのを理解できない、見失ったときほど傷が深くなります。

 

という意味では理解度は毎日過去最高を記録していってるはずなんだけどな…笑。

 

あともう少し。

発信ができていません。

苦しい時こそ発信しなくてはならない気もするのですが。何かを発信することすら、自分の隙のように思えてしまっておりました。

 

少しずつ、あと少し。

 

答えのない問い

 

 

答えがない、のが答え。ではあるけれど、それは現在における暫時的な、一時的なものであって、常に答えを"求め"ないとやっぱり未来はない。

 

答えがあると思って答えに依存することも

答えがないからと答え探しを放棄することも

どちらともあまりよくない。

 

答えがあると思ってひたすら探し続けると、きっと世界は応えてくれると思う。

 

答えを求める限り、世界はヒントを出し続ける。

 

 

どうにもならないこと

人生はどうにもならないことをどう呑み込んでいくかということじゃないか。

 

姪っ子が相変わらずぎゃんぎゃん泣くのですが、やだやだ言うんですね。

今回は何かを「遅いね〜」と待ち続ける場面だったのですが

何かを待つってどうにもならないじゃないですか。それが動かないとこちらが動けないのだから。

(確かに待ってる時に、何かゲームをして待ってないように感じさせるというのもある意味吞み込み方でしょう)

 

でもそのどうにもならない時間ってきっと子供にとってはただただ居心地の悪い時間で泣きたくなるんだろうと思うんです。

 

思えば、生きていればこのどうにもならないことのレベルが上がっていくのだと思います。

希望の学校に入れなかったとか、就職できなかったとか、好きな人にフラれたとか、大事な人が亡くなったとか。

 

そういうとき、無力な子供のように泣きたくなってしまうんだろうなぁと思う。(言い換えれば心が自分のコントロール外にいってしまうのだろうけど。)

 

どうにもならないことをどう吞み込むか。

いくら大人になっても居心地悪いもんは悪いんだけどね。

 

居心地が悪いときの対処法が決まってたらいいね。ちょっと悪い、悪い、すごく悪いとかでハンドルの重さが変わってくるでしょうけど。

 

ときには這いつくばるしかないわ。

大きい選択 小さい選択

小さい選択は他人に合わせるようにして、幸せになるようなこともあるだろうと思うけど、

大きい選択は自分で、なんなら自分のなかの「リトル○○」(cf.リトル本田)に聞かないと幸せになるようなことは少ないと思う。

 

ここで言う小さい選択とは、お昼何食べようとか、どこに遊びに行こうとか、そういう些細な長期間影響を与えないもの。

大きい選択は進路選択や仕事、趣味とか長期間に渡るもの。

 

小さい選択に対して自分にこだわり過ぎると、うざったい人間になるし

大きい選択を他人や世間に合わせると違和感が大きくなりいつか後悔する。

 

小さいことは譲ろう、でも大きいことだけは自分で決めなくちゃいけない。

 

まぁ、どうなるかわからないのが人生なんですけどね。

人に言われてから行動するんじゃ遅い

この前テレビで内村航平さんがインタビューに答えられていて、父親について語るときにこんなことを話されていた。

 

父親は普段から無口なんですけど、それはつまり「人から言われてからやるようじゃ遅い」って思ってるんだと思います。

人に行動するきっかけをもらうようじゃ遅いんです。

 

と。

その他、メダリストの先輩の「世界一になるやつは世界一練習したやつだ」といういい言葉もありました。

 

と、人から言われて行動するようじゃ遅い、というのを考えてみますと、つまり誰が何を言わなくても行動するってことだと思うのだけど、

これって確かに怖いことだと思う。

 

例えば

この扉を開けていいかどうか迷っていたとして

誰かの「開けなよ」の声をなしに開けるようなことだ。

開けなくてもいい、開ければより辛くなるかもしれない、恐怖が襲うかもしれない、そういう扉を誰の同意や応援を求めるでもなく、開けていく、そういうことのように思える。

 

これを自分を信じて突き進む、そして誰より練習する、この世界一の感覚に触れることができたことはとても興味深かった。

 

最近思うのは、やはり抜きん出るというか、充実させるというか、無味乾燥な日々からの脱却というのは、人がやらないことをやるか、人がやることでも人がやらないレベルまでやるか、しかないと思う。

 

それこそ内村選手についてなんて、よく才能で片付けるけど(番組内では努力の天才と言われてましたけど)、全く同じ努力をしてそれでも相手が上ならそれは才能の差と呼べるだろう。(実際は休んでる間もメンタルトレーニングや集中の度合いもあり全く同じなんて再現不可能ですけど)。

まず同じ努力を誰ができるのだろう。

全員に内村航平さんと同じ努力をすれば金メダルをもらえる確証があったとして、それで内村航平さんと同じ努力できる人は何人いるだろう。おそらくほとんどいないだろう。

 

それも結局、人からの確証がなければ動けない。

 

その確証もなく、その扉を開け続けなくてはいけない。そして開け続けた人しか辿り着けない境地がある。

 

逆に言うと、それができればほとんどの分野である程度生きていけると思う。

 

誰が何を言わなくても、それを始め、それを続け、更新しつづけること。クオリティを求め続ける、時間を掛け続けること。

諦めそうになったら、ここで降りる人はどれくらいだろう、と客観的に考えてみよう。

(株の損切りはこんなこと考えちゃダメですけど)

 

多くの人がそこで諦めるなら自分はあと一歩前に進む。

その繰り返しはとてつもない財産になる気がします。

内村航平さんの感覚を知れてやっぱりテレビは素晴らしい。笑

 

 

いい天気ということ

なぜ梅雨に入るというのに乾燥注意報が出ているんでしょう。
おかげで喉がやられています。

5月中にはどうにかと思ってましたが、ちょと6月まで様子見たいと思っています。そこでどうにもならんば生き方を修正せねばならない。

さて、最近、いい天気に反応することが少なくなりました。
のめり込むことをやっていれば、天気とか、今まで好きと思ってたものに割ける時間が少なくなるもんだなぁと思いながら。


それでもふと見た空はやはり綺麗でした。
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空はやっぱり素晴らしい。
それだけでした!

知らないことを知る

一冊の本が、一人との出会いが、一個の出来事が人生を方向づけることがある。

むしろそれら以外に、人生の方向が変わることはそんなに無いように思える。

1人で考えをこねくり回した末に出た答えはだいたい今と変わらない。んでもって面白く無い。


本や出会いや出来事に共通なことは
それらを"今まで知らなかった"ことであると思う。


現状を変えるには、前提を変えるしかない。
知らなかったを知ったにする。
パズルのピースがひとつ埋まる。

そうしたら途端に全体が見えるようになることもある。


知らないことはある意味、希望である。
ともすれば、全知全能でない限り希望は必ずある。
君が求めるものは知らないことの中に埋まってる可能性の方がよほど高いのだから。

生きる理由・死ぬ理由

死ぬ理由に勝る生きる理由が見つからない。
と言ったのは、秋葉原通り魔事件で加害者となった人の弟さんだっただろうか。

詳しくは検索なりしてもらえればと思うけど、この話を聞いた時、ほんと切ないなぁと思った。ニュースを取り上げてあれこれ書くつもりは毛頭ない、これを引用したのは、冒頭の言葉がもっともだと思えたからだ。

おそらく多くの人は、死にたいと思いながら生きてはいないはずだ。例えばー場合分けして考えてみるがー何かに生きがいを見つけている人は問題ない、楽しく生きてくれ。てなもんだ。では次に「なんで生きているんだろうか〜」なんてぼんやり考えている場合(これが大多数じゃなかろうか)。ここにもきっと生きる理由はいらない。確かに生きる理由はないかもしれないけれど、それ以上に死ぬ理由がないから。
怖い体験や苦しい体験、あるいは家族や赤の他人に少なからず迷惑がかかる死を選ぶ理由が一般的にはない。だから別に生きる理由なんかなくたって生きることを選ぶ。でも特に明確な理由がなくたって生きてるということは全然ありだと思う。ー息をすることにもいちいち理由が必要なのかいーと誰かが言ってた。生きる理由と出会わなくても何かしら楽しいことがちょっとでもあれば、「これが生きる理由だよ!」なんて天の啓示を受けずとも別にOKだと思う。天の啓示がどうしても欲しいなら啓示に出会えるくらい動けばいいと思うし、もうそういうのは運だろう。人によって天の啓示に出会える確率が備わっていたとして50%の人なら何か2つのことに挑戦すれば出会えて、1%の人は100個の挑戦をして出会う、そういうものだと思う。

で、ここからは、死にたいと思っている場合。
これはなかなか深刻にはなりたくないけど深刻だ。もうすでに死ぬための怖い体験や苦しい体験を厭わないときている。
その場合、冒頭の言葉のように「生きる理由」が必要なのだと思う。それは大多数の凡人が思う「生きてることに理由なんてないよ」とわかった風な顔で済まされるものとは違う類の、もっと逼迫した理由なのだと想像する。息をするにも理由が必要だ。

それは大切な人や生き物や関係性や地位や責任感とか震えるような体験、か何かはわからないけれど、支えとなるなにかが確実に必要だよなぁと思う。

翻って私が死なないのは、死ぬ理由がないからというのが多分一番近い。

でも誰だって一寸先に死の側に近づく可能性もあるはずだ。
その時本当に生きる理由が問われて、果たして「死ぬ理由に勝る生きる理由」を見つけられるのだろうか。
絶望の淵に立つ自分を、その人をつなぎとめることができるだろうか。